物は「天地間に存在する数限りないすべてのもの万物(まんぞう、ばんぞう)や事象」とある。
私の物での一つの宝は数多く存在するアルバムである。子供の頃の写真はあまりない。両親は忙しくそのような余裕はなかった。
私の生きてきた人生が詰まった思い出の写真である。白黒写真も大好きです。何故だろう?温かみを感じるから?モノクロ写真はレトロな雰囲気を感じさせる?哀愁を感じさせる?. アートでお洒落に感じるから?
若い頃は死を意識したことはほとんどないと思う。若さは宝と言ってた母を年を取って特にしんみり実感している。
私の里に住んでいた時えかきの、もう忘れていた、事故をこうだったと再び心に浮かべる。もう40年ほど前のことになる。家を建てるのに山で木を伐り、製材し、そしてコツコツと毎日少しづつ建てていた。
銀行に勤めていた私、友人が突然仕事場へ入って来られ「旦那が電気カンナで指を切った」と
ホームドクタ-はブラジルへカンファランスに行っておられ、仕方なく初めてのほかのお医者様に。
後で知ったことですが、その方は癌に侵されていて治療やオペをしてはダメだったと言われても後の祭り?主人も言ってた,のどが渇いたので、一服しょうかと考えてた矢先の事故、これも後の祭り。べっぴんが通って手元を観ず油断したのでしょうか?
オペは失敗に終わり、詳しいことはプロではないので確信をもって発言できない。
先っぽの右の親指を切ってしまいオペの為に麻酔を。注射器の針を落としてはそのまままた同じ針で打ち続けたそうです。化膿しました。
まだ残ってた親指の腫れ具合は何倍になってた?その続きの治療はホ-ムドクタ-へ。オペのあと初めて包帯を外し主人の指を見たときには私は気分が悪くなり外へ出してもらった。息苦しく、めまいがして、気を失いそう。
本人はもっとつらかったでしょう。黴菌が入り、化膿して、痛みも半端ではなかったようです。その日からクリニック通い。ピンセットで少しづつ膿をとる、化膿止めを飲む。何日続いたかはもう覚えてないけれど我慢強いえかきでも精神的には滅入ってた。
ドクタ-も益々悪くなっていく一方なので里から1300km離れた首都ブエノスアイレスへ行くように進めた。一人でバスで旅経った。
アルゼンチン生まれの日系二世のドクタ-と縁ができ、クリニックで診察はなんでも有料ですが、ご自分が働いていたhospitalの方で(無料です)診察を。このままで化膿が進むと手首、肘、関節ごとに切断となるので、急遽親指の切断を。
日本のえかきの母は心配でほぼ家の隣にあるお寺、釘抜地蔵と皆が呼んでいるお寺で毎日願けをしたそうです。
そして日本帰りを決めたのは義指を作るのが目的。また一人で帰国。結果的には義指は見た目だけでこの頃の技術では機能的にはあまりで、不便なだけと言われ,諦める。
指がある時に考えもしなかった指がない時の不便さは私にはわからないけれども、その当時聞いた時の答えはボタンを止める、外す,ハサミを使うとき。。。
えかきで右手が利き手、筆やお箸を使うのには人差し指と中指で工夫してる。ほぼ24時間いつも一緒だけれど、あまり指がない不満は聞いたことがない。政治やほかのことには文句たらたらですが、、、
文書では説明しずらいけれど、両方の親指を曲げて、くっつけて、パクッと食べる真似をして驚かす遊びをよくしてた。
小さな子供たちは目を真ん丸くして驚いてた。「本当に親指無くなったね~、そんな遊びをするからだわ~」とたまに冗談を言う私。大人たちは失礼だとか、その話に触れたらいけないだとか思われがちですが全然どうもありませんよ。
子供たちは「梅干しみた~い」とか言いながら喜んで触ります。子供は無邪気で、素直で、かわいい。
また母を思い出す「けんちゃんは山で木を切っているときや製材所での時には心配したけれどもまさか電気カンナで」
ゆびありより指なしの方が長いえかきの人生の一コマでした。今気が付いたのですが、次男、長女は指なしの父親しか知らないことを。
「人生には不可能はない」
梅干しみた~い