長いお付き合いで書ききれないスト-リ-
京都に住んでいる頃、アルゼンチンからすぐ下の妹が一年近く日本へ来て一緒に生活をした。
ある日、妹一人で団体旅行へ日本海方面へ行かせることに。
四条大宮にちょっと早めに着く、私は見送りに、バスでの団体旅行。腕に腕章をはめながらこちらへ近寄ってくる。
妹と二人で話す。あの方韓国の方みたいだね~添乗員かしら?でした、でも純日本人で広島出身。
私は添乗員にお願いする、すみません妹はあまり日本語がわからないのでよろしくお願いしますと。そしたら、彼の言うことは”お姉さんもご一緒に行かれては?”と。
無理です。次男まだ小さく、長男は幼稚園、家には主人も姑もいるのです。妹はエミリア パトリシアが名前ですが、エミと呼んでます。
エミに日本の温泉は混浴もあるのでと注意したのが間違いでした、怖がりのエミは一切温泉へは入らず帰ってきました。私は温泉は大好きなのでとっても残念で仕方がありませんでした。
後で添乗員に聞いた話ですが、エミは断りもせず椅子の背もたれをガ~と倒し、後ろに座っておられたお客様の飲み物がこぼれ、彼はエミの代わりに平謝りしたそう。
旅行が終わり、写真が出来たので、添乗員に電話連絡をしました、いや違いました、写真を郵送した?と思う。彼からお礼の電話が来た時に今から来られませんか?と誘ったらびっくりされました。
電話の向こうで戸惑ってる彼、そして言われました:「え!ご主人もお母様もおられるのでしょう?」いますが、と返事をすると、京都の文化?京の茶漬け、(京都の気質をよく表していると言いますが、、、京都人は嫌う人も)、
となんとかかんとかぼやいてましたが、私のアルゼンチン人の文化というか,性格というかに圧倒され、しぶしぶ来られました。お茶をしたような、そして夕飯をご一緒にいかがですかとお誘いはしたのですが、遠慮してとっとっとお暇されました。
それから家族ぐるみのお付き合いをさせていただくようになりました。
彼は京都へは大学へ、そのまま旅行者へ就職されて、私は出会ったのです。あれこれ40年近くになり、ず~とお世話になっております。
年数で言えばほぼ私の結婚生活に近い、話し出すとエピソ-ドはわんさかとある。
子供とお年寄りにはモテルと自分で仰ってましたが、子供からとっても好かれよく遊びに来られ度に根気よく子供たちを構ってくださいました。
姑と私は彼からマ-ジャンを習い、良くしました。娘を膝にのせて眠いのでうつらうつら打ちながらというとお叱りを受けそう”なんていう教育”と。
優しく、丁寧に教えていただいたお陰で、今は滅多にしないけれど、楽しめます。囲碁もそうですが、麻雀もボケ防止には最高だと考えます。
写真アップは許していただいたのですが、条件は面白い、名前は伏せてと。写真を観たら誰かわかると思うのですが、、、
次男のヒトシは000さんと言えなくてぎ~にいちゃんとよんでた。私もここではそう呼びます。私より二つ年下の戌年ではありますのでおにいちゃんではないので、ぎ~ちゃんとしよう。いや、ぎーくんの方がいい、なじみはないけれども。
旅行もプライベ-トで、お仕事の時に旅行会社でもよくしました。今から思えば,添乗員の時を選んだのか、一緒の旅行が多かったとアルバムを見ながら思い出してる。
広島出身なのでもちろんカープフアン。26歳の誕生日にカープの野球帽をプレゼント、写真を拝見すると皆笑い転げているけれど何故かはどうしても思い出さない。私は28歳、子供は小さい、若かったからかとっても楽しかった。長女を妊娠している、4~5か月ぐらい?
実家は写真屋さんで、長男なので写真館を継ぐ為に京都を離れ里へ。帰る前にアルゼンチン旅行を両親のお許しを得て、私、長女、三人で弟の結婚式へ行く。
ぎーくんはまだ独身、飛行機の中で娘のオムツを変える時の彼のしかめっ面をいまだに思い出し一人でほほ笑む。
ブエノスアイレスで友人が車で飛行場へ送って行っていただいたっけ~信号を無視して飛ばす、スピ-ドを上げる。ぎーくんは後ろの座席で腰を抜かしてた。友人はペペと言い、面白がって益々車を飛ばす。怖がらせる。
空の上から見たブエノスアイレスの町の夕焼けはとっても美しかった。
さて、里でも色々ありました。彼には初体験がほとんどで、エミは面白がって,げらげら笑いながら冷やかす。それも愛情の表現だけれど日本人は冗談はあまり好きではない。アルゼンチンは物騒なのでお金は靴の中に入れるようにとかアドバイスをしてた。
私はイグアスの滝、アルゼンチン側、ブラジル側へ末っ子の弟アンヘルと父と案内、そうだその時パラグアイへも行った。ぎ-くんは何が悪かったのか食あたりになった。多分ブラジル名産のfeyoadaが(豆料理)が重く、慣れない国と疲れた体が反応。ヘリコプターでのイグアスの滝観光は楽しめたのかと今更ながら思っております。
早いスピ-ドで驚かせた友人のペペ、ぎ-くん、私と娘とで友人の運転でアルゼンチンを半分ほど旅行した。後悔していること、ペペがわざわざある街でカエルを食べに連れて行ってもらったのですが、ぎ-くんは絶対嫌だと、ほかのメニュ-に変えて食べそこなったこと。
日本へ帰る
私たちは日本へ帰り、ぎ-くんは旅を続けた、チリ、ペルー?はっきりは知らないけれど色々回ったらしい。真面目な彼は少しは大人になって帰国したかしら?
あまりばらすと怒られそう、友達の縁を切られそう、これが最後のエピソ-ドです。お父様の話によると、もちろんまだ若かれしころ、町内の青年団の消防に入っている頃、火事、火事ウ-ウ-とサイレンが鳴り始めたころに起きだし、歯磨きをする、着替えて二階から降りてきて行こうとしたときには消防団は火事をけしてカンカンと帰ってくると大笑いしながら息子のことを話す。
それ程のんきな人でした?今では結婚をされ、一人息子も高校生。多分昔ほどボ-とは日々を過ごしてないと思う。写真館の跡継ぎで頑張っている。
近くて遠い国ではないけれど、何年もあってない気がする。電話では偶に話しますが。ある友達が言ってました。「会いたいと思ったときに会っておかないと後悔すると」
もう一つ後悔してることは、ぎ-くんのお母様をお見舞いに行ったときに「うなぎ丼でも食べていきんしゃい」と言われ遠慮してお断りしたことです。あれが最後に会った様に記憶している。一緒によばれて御供しながらお話を聞いてあげればよかったかなぁ。息子さんのことが心配でしょうがなかったよう。
今はコロナで入院しているとこの世のお別れには身内の人とも会うことも出来ない悲しいシツエイション。まぁ死ぬときは一人とは言うけれど、身近な人にはお別れを言いながらこの世を去りたいのが自分のささやかな願望。
友人って本当にいいですね~ 天涯比隣(てんがいひりん)