小川家は祖父のご住職様の時代から京都市西方寺にお世話になっている

 

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西方寺(さいほうじ)は、京都府京都市右京区常盤出口町にある浄土宗の寺院。山号は入逢山。本尊は阿弥陀如来(あみだにょらい)。開基(創立者)は宇都宮頼綱。

歴史
西方寺は、1259年(正元元年)、当時既にあった寺(西明寺とされる)の境内に、法然に帰依して出家した宇都宮氏第5代当主宇都宮頼綱(実信房蓮生)が念仏堂を建て、西方寺と呼んだことに始まるとされる。宇都宮頼綱は関東・宇都宮にあって鎌倉幕府に仕える御家人であったが、北条氏との政権抗争に巻き込まれ、謀反の嫌疑をかけられたのを機に折から熊谷直実(蓮生)の勧めで入信していた法然の元で出家し、京に隠遁した人物である。京では藤原定家と懇意になり、定家の子の為家に娘を嫁がせ姻戚関係を結んだ。

応仁の乱の際は、焼失した仁和寺の寺基が当寺に移されたといわれる。

1017年(寛仁元年)8月 - 敦明親王、皇太子を辞し小一条院としてこの地にて隠棲する。
1259年(正元元年)- 宇都宮頼綱(実信房蓮生)が建立した念仏堂を西方寺と称す。
1467年(応仁元年)- 応仁の乱により御室仁和寺の伽藍が全焼、寺基をこの地に移す。
1634年(寛永11年)- 仁和寺の再建に伴い寺基を移す。
1940年(昭和15年)- 奈良時代の土器と平安時代~鎌倉時代の瓦が出土。
2005年(平成17年)- 山門が落成。wikipedia より

 

西方寺の一年を通して季節の花々が見応えあります

 

えかきのつまは10年間京都市に住んでました

えかきの父親は1921年生れの酉年で1971年5月17日に若くしてあの世へ行きました

丁度50歳でしたので私はお会いしてません

えかきは父親の死の連絡は南米のペル-で知らせを受ける、釣った魚が父親の目の様に大きかったのでお別れを言いに来たのではと思っているようです

日本からは遠い国、パスポ-トは役所でなくされるはでお葬式には間に合わなく、自分は親不孝したと感じている

特攻隊員で第二回世界大戦が終わっていなければえかきは生まれていない

 

小川豊、絵描きの父親
小川憲一豊実作
キャンパスに油彩

 

 

無理をしたのか、肺結核を患い入退院を繰り返して、オペをと決心した時には身体が弱っていてできなく、苦しんで亡くなられたと聞いています

生きておられたら今年で103歳

お義父さんの最後の法事は33回忌?と思いきや13回忌?を西方寺で、今のご住職のお父様に

前のご住職、三輪有明さん、フエスペ-ジから拝借いたしましたが年を召されてからの写真ばかりですが、若い頃の面影はありです

郵便局へお勤めをしながら西方寺の勤行をされてましたと聞いてます

私が存じ上げているお坊さんの中で兼業?と言ったら失礼かもですが、おられないのでは?

本当にお疲れ様でした

お仕事の後に月参りをして頂いていたと思う

仏壇がテレビの横にあった

その時間帯はタケル、長男は好きな番組があったけれど、テレビをoffにしなくてはならず、不機嫌だったことは記憶に残っている

そしてたまにはちょこんと正座をしてお経を聴いていた?、多分早く終わらないかなぁ~と考えていたの方が正解でしょう

 

13回忌は良く覚えている、皆さん千葉からお越しいただき狭い千本の家で泊って頂いた,ただ1984かは定かではない

写真をみると次男を抱いている、長女はその年の12月生まれである

13回忌、その頃はまだ皆様若くて、千葉から、大阪からときょうだいたちや姪や甥、身近な親戚が来られてました

 

 

33回忌は多分2004年だとするともう福山市に移住していた

行ったか、行かなかったか、法事をしたような、してないような、本当に人間の記憶は当てにならない

 

多分1981年頃
タケルとヒトシお墓にて
皆若い
絵かき、母親、絵描きの妻と次男ヒトシ、スマお祖母ちゃん
タケル写真写す

 

小川豊、絵描きの父親は千葉の成田生まれ、9人兄弟の末っ子です

お義母さんとはあの時代にしては珍しい、恋愛結婚だったそうです

えかきのつまの両親でも見合いで結婚した

 

えかきの両親
小川豊とふみ子
豊の豊とふみ子の文を合わせてHOBUNと言うブティックを千本寺の内で、そしてその後は宇治で

 

ファションホーブン前にて祖母と何人かの孫たちと

 

ブティックHOBUNの前にて
お義母さん 右端はえかきのつまと長女のミルタ

 

えかきのつまの宝は家族写真や動画です

小説や本も読めなくなったら思い出を辿りながらじっくり観るつもり

今では、はっきり思い出せない折にはアルバムをめくり確かめるのです

で太秦の藤田家の昔の写真があり、お義母さんがまだ中学生の頃でしょうから、大体90年ほど前

 

もしやご住職は西方寺の祖父でしょうか? 二列目の右端が義母のお母さん、スマさん、その隣がスマさんのお母さん えかきに言わすと藤田家の女性は皆キツイ、自分の母も含めて 46歳で夫を亡くして一人で生きてたら強くもなりますとはえかきのつまの意見
えかきのお母様 白黒写真大好きです 85年程前の写真とは思えないほどはっきりしている

 

アルバムをめくっているとあった!!!

やっぱりうっすら覚えていた義父さんの33回忌、2003年に法事をしたようです

日本での数え方はまだはっきりとわからない、数え歳だのとさっぱり

西暦で数えではない方がはっきりと分かりやすい

このことでえかきと議論になること多々あり、来年が金婚式だと言う、私的には1976年に結婚したので50たしたら2026年が結婚記念日と言う

友人に電話してどっちでしょうか?と聞く、日本的にはっきりと答えないので、えかきのつまはこの様な時ちょっとイラッとするのである

”コ-ヒ-と紅茶どちらがいいでしょうか?” ええと返答する方が多い

内心どっちなのですか?と思いながらはっきり言わない日本人の奥深さは誤解を招いたるするのでは?

習慣の違いは面白いけど、厄介な分もある

YesかNoと言うのは傷付く場合もあるかもしれませんが、アルゼンチン人としてはその方がありがたいし、分かりやすい

友達だからこそ相手の例えばマイナス面も袁了せずはっきり言う

 

 

えかきの母は1925年生まれの丑年で今年亡くなられたので父の倍生きたことに

49日の法事を西方寺で、現在のご住職、三輪愿宗さんに御勤めしていただきました

フエスブックをされていて、最近つながったのですが、自己紹介で「真面目に生きてて狂いそう」、えかきのつまはそのフレ-ズがとっても気に入り、面白く、狂ったら大変なので少し不真面目に生きて下さいと冷やかした

https://www.facebook.com/munehito.miwa

ご興味がある方覗いて見て下さい、面白いお方です

 

 

蠟燭が何本かわからない、字もなんて書いてあるか読めない、歳をお聞きしても本人は言わない 多分長男世代だと思うのですが、、、

 

 

ご住職さんは何でもできるのですね、うらやましいえかきのつまどす

 

この二枚の写真は人間らしくていい

 

最新の写真たちは納骨をしたときのです

 

義母の49日の法事の時、前住職は兎年

 

 

お世話になりました

その時のお話の中でやっと義母は義父と一緒になれたと

で思い出しました、ご住職の祖母のこはるさんが言ってた、ご住職と坊守は浄土宗では同じお墓に入らないそうです

とっても不思議に感じたことを清明に覚えてる

坊守のこはるさんはとってもやさしいおかたどした

えかきのつまが遠いアルゼンチンより嫁いで来たことで気の毒に思われてたのか、西芳寺へ行くと帰りにはそ~とポケットに忍ばせてた、あるものを

もうあの世へ行った、陶芸家の友人が「おまえな、お寺へは持っていくものでもらいに行く所ではない」と笑われてた

坊守のこはるさんが微笑んで下さってた表情は忘れることが出来ません

勿論私にだけではなく、皆様に同じようにされてたと想像します

福山へ移住してから何年か掛け軸の表装を習いに行ってた時にこはるさんから頂いた描き下ろしを軸にした、そして偶には床の間にかけてこはるさんを偲ぶ

 

三輪こはるさん、84歳で描くとある、力強い字だと思う

 

 

西芳寺の皆様の笑顔はとても心を穏やかにするそしてポシティブなエネルギ-が伝わる

生きることが難しい今の世の中、えかきのつまにはホットする場所です

残念なのは少し田島から京都市では離れていて滅多に訪れられない、ましてや年を召していくとです

お墓参りが頻繁に出来ないので、テレレで小さな仏壇で手を合わせている

えかきの父に会えなくて残念どしたが、先日甘党だった義父にぜんざいを作って備えました

 

今年は彼岸花が10月になって花開きました

 

義父の位牌は昔の物

今回義母の位牌をお願いしました

 

義母のは新しいのでぴかぴかです

義父のは少し金塗りが剥げて来てますが、私は古いものが好きなのでぴかぴかよりも好む

 

若さは宝と母が言ってた
年を召していくと痛感する

 

人生は短し、毎日を大切にと思うこの頃のえかきのつまである

 

小川(松ノ下)マリアイネス拝

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