桜の花が散って、今では藤の花が満開、咲いて散り行く短し人生のよう
伯太町のチュリップ
鴨川の春

 

毎年楽しみにしてた花見は花粉症で今ではそうでもない
ジャングル生まれ育ちのえかきのつまは絶対花粉症には縁がないと確信してた
知り合いの花粉症の方が言ってた「絶対なりますよ、コップに水を注いで一杯になり溢れ出るように」
えかきのつまはなりませんといつも心の中でささやいていた
変な自信があった
ところが、ところが数年前に絵描き、陶芸家の友人とえかきのつま三人で日田の街を歩いていたら鼻水が出始め止まらない
陶芸家の右近さん
あぁ~花粉症の始まりでした
症状が軽い年もあればそうでもない年もある
花粉症の人は癌にならないとかいろいろ言われてますが、でも結構鬱陶しいです
なので花見はあまり楽しめなくなりました
ティッシュペーパー箱を持っての悲しいかなの花見になっています
好き嫌いのないえかきのつま花は全部大好きです

         花見とは?(はなみ)

主に桜の花を鑑賞し、春の訪れを寿ぐ日本の昔からの風習です

春になってあちらこちらで桜が咲き始めるとそわそわと心が躍り出し、家族や友人、恋人とお花見に行きたくなる

えかきとヒトシ

 

京都では良く花見へ行きました

 

鴨川にて

 

枝垂れ桜

 

京都市植物園にて

 

福山城にて

お花見の歴史はなが~い

初めは梅の花だったそう

お花見は、奈良時代の貴族が始めた行事と言われており、当初は中国から伝来した梅の花を観賞するものだったようです

平安時代に入り、お花見の花が梅から桜へと移り変わっていきました

桜の花でのお花見の起源は、「日本後紀」によると、嵯峨天皇が催した「花宴の節」という宴であると記されています

貴族の行事だったお花見が、鎌倉時代以降は武士階級にも広がった

有名なのは、豊臣秀吉の「吉野の花見」や「醍醐の花見」

「吉野の花見」は文禄3(1594)年、豊臣秀吉が徳川家康や前田利家、伊達政宗などの名だたる武将や茶人・連歌師などを伴い、奈良県の吉野山で行ったもの。参加者は総勢5千人、5日間にも及ぶお花見だったといわれています

 

「醍醐の花見」は、お花見のために700本の桜が醍醐寺に植えられ、豪華絢爛に茶会や歌会などが催された

お花見とセットで親しまれる「三色団子」も、この時に振る舞われたのが最初だと言われている

そして、お花見文化が庶民にも広まったのは、江戸時代から

 

 

        花言葉とは?

花言葉は植物の花や実などに与えられた、象徴的な意味をもつ言葉。 日本には、明治初期に、西洋文明とともに主にイギリスの花ことばが持ち込まれました。 国や地域・民族・宗教によって花言葉には大きな違いがあります。 それは、花や植物と人間の生活文化の発展とが深く結びついていたことを物語ると言えるでしょう。wikipediaより

花言葉の一位は薔薇で、愛情、でもそのバラの種類によっては花言葉は異なる
加藤登紀子が歌う百万本のバラは有名
内容がちょっと違いますがえかきの恋を唄う
結婚50年をそろそろ迎えるが、一度だけえかきのつまの誕生日に百万本ではなく一本のバラを埼玉での個展開催中にもらった
えかきはサプライスのつもりで後ろに隠し持っていた一本のバラだったが、個展会場から丸見えでその姿が可笑しかったが、いい思い出である
井原市にて

 

人気のある花

1位サクラ(桜)

2位バラ

3位ヒマワリ

4位アジサイ(紫陽花)

5位コスモスだそうです

 

沼隈へ移住したころラディオでチュリップが満開と聞き車を走らせた、伯太町結構遠かった

 

沼隈町の菖蒲園

 

ビバーナム・スノーボールの花言葉は「年齢を感じる」

本当に年齢を感じる年になりました

あっという間に過ぎ去る人生は短い花の命の様

えかきはつまへの愛情は変わらないと言うが、いつか百万本のバラをいただく夢見るえかきのつまである

 

小川(松ノ下)マリアイネス拝

 

板に油彩
小川憲一豊実描く

 

和紙に水彩
小川憲一豊実描く

 

タンスの引き戸に油彩
小川憲一豊実描く

この記事が気に入ったら
フォローしよう

最新情報をお届けします

Twitterでフォローしよう

おすすめの記事