松ノ下マリアイネス絵描きの小川憲一とアルゼンチンで知り合い結婚 完
誕生日、里にて
アルゼンチンでは誕生日には年の数だけ耳を引っ張る、年をとりたくな~い

 

個々の人生はそれぞれ違う、価値観も、みんながちがって、みんないい

同じ道を辿るのは面白くないと思うが、、、

えかきの人生、生き方は特別人生半世紀近く共に過ごしてきたつまも結果的に染まった生き方になりました

皆様の人生と比べると、比べたらいけないのでしょうが、違うことが沢山あります

でも妻は苦とせず、深く考えずに過ごした毎日

 

よかったか、わるかったかはだれが判断出来よう

色濃い人生も色いろあろう、絵描きの妻として今はそう思う、とっても濃い人生である、永遠に語り切れなさそう

 

ベレ-帽と言えば画家のイメ-ジ?

日本では手塚治虫や藤子.F.不二雄を思い浮かべるが、芸術の国のフランスではそれ以前から画家の帽子として定着、ベレ-帽のルーツはフランス南西部にあると言う

えかきの夫はベレ-帽のイメ-ジは000,召されたことは見たことはない

えかきの恰好はしないけれどその道に関しては一筋に生きている

自分の信念は何があろうとも、多分つまから離婚と言われても、絶対譲らないし、曲げないのである

 

絵は右脳で描くそうです. 右脳は感性脳、イメ-ジ脳、

左脳は言語脳、論理脳と言われるそうです

右脳は天才的な動きをして左脳はそれを言葉や文字で表現する. 両方の脳をバランスよく使えば能力を発揮できる.

 

絵とは人や風景を写し取る、画材はなんであれ、えかきは自分の奥深くにあるものを絵に描いて表現する

絵を描く人、そしてその作品を楽しむ人

 

今、人々はほど遠いところへと離れて行っているが、この不安定にする現実の社会には、絵に親しむことはとっても大事だと考える

 

肝心なことは目より心で見る

 

芸術、絵の役割はなんでしょうか?芸術は世の中の役に立っている、いないと思う人がいる

絵や美術品を鑑賞したら,いやな日常のことを少しは忘れて、ストレス発散になったり、気分転換になったり、嬉しかったり、悲しかったり

 

感動するのは一番大切だと考える

家の壁に一枚の絵がかかっているだけで、暖かな感じがする

学校でも想像力や芸術を、技術を高めたりするのに役に立っていると思う

知識も大事だけれど、感情性豊な人も良い

”この世の中には、何かの役に立っていない者なんか一つもないんだよ”

イタリア映画、道より

 

”つまづいたっていいじゃないか、人間だも“”

 

”生きているということは誰かに借りをつくること、生きてゆくということはその借りを返してゆくこと”

永六輔(大往生より)

 

アルゼンチンに住んでいたころ、えかきは自分で家を建てるのに、山へ木を切りに,そしてその木ぎを製材し建てた

棟上げにはお手伝いしていただき、後は絵描きがコツコツと一人で

ある日電気カンナを使っていて手が滑り、自分の右手の親指を少しけづってしまい、お医者へ

原因は確かではないのですが麻酔注射の針を落として、また消毒もせずに打ち続けた

化膿しました、指が五倍ほどに膨れ上がり、毎日その化膿した膿を提出するのに他のところの医者へ通う

痛みは本人にしかわからない

毎日一緒に行ってたつまは一番最初にカーゼをとって、見た時には卒倒しそうでした

人間の親指とは思えない腫れ、化膿したのです

何日も何日も膿をとるために医者へ通いましたが、良くはなりません

で、アルゼンチンの首都、ブエノスアイレスの日系二世のお医者様に診察していただいたら、化膿が続くと、関節ごとに切断しなくてはと、、、このまま化膿が進むと手を切断となるので、親指をなくし、四本指にだけに

 

親指がないのは、それも右手はえかきの利き手でもあり、ショックは隠せなかった

不自由に感じたのは、ボタンをかけること、お箸は元の通りではなく人差し指と真ん中指で挟む、そして筆もお箸と同様、後ハサミを使う時、などなどです

親指をなくし、勿論痛みも治まりましたが脳は指がないことを意識?するのには何年もかかったようです

 

落ち込んでいた時もあり、日本へ帰ることを決める

最初は一人で帰国

日本で義指をと考えたけれども、色々な専門家に聞いても義指は不便、見た目だけの事なので断念

 

少し遅れて長男3歳をつまは連れて初めての日本の地を踏んだのは、絵描きの生まれ育った京都、多分1979年だったように記憶している

 

所変われば品変わる

 

日本の京都に住んでいると肌で実感するにはどのくらいの時間がかかったかしら?街を歩いていると、あの頃はmade in Japan が多かった、、、

あ❕輸入製品だと何回思ったことが数えきれないほど、何回もあり、脳はまだアルゼンチンにいるかのよう

京都市では御所にちょっと近く、天神さんやそしてすぐ近くにくぎぬきさん(苦を抜いてくれるお寺)、大徳寺、船岡山もありました

小川家では友達が来てないの日の方が少なかった

常に日本国内から、アルゼンチンから、アメリカから、ヨ-ロッパから、留学生は韓国、東アジア、からと目まぐるしい毎日でもとっても楽しい日々を送っておりました

 

友人や初めてお会いする人たちを観光案内したり、食事の準備や幼稚園の送り迎えと、etc、、、今思い出してみればハードな日々をしあわせに生きてました

 

えかきは自分の好きな絵を描き、私はスペイン語をKBSやエレベ-タ会社のフジテックス、家では個人レッスンを

 

1981年には次男を出産、長女は里帰り出産を1984年に

 

アルゼンチンのウスアイアにて

家族はだんだん人数が増え賑やかになり、従妹たちや学校、保育園のお友達で家の中はいつもごったがえ、わやでした

子育ての時期が一番良かったと過ぎ去って実感する、若さもありだし

 

日本の教育方針に納得いかず、アルゼンチンへえかきは移住、つま里へ帰る

生活費は日本へ絵を送って、里も身内が、家族との触れ合いは良かったと思う

でもバブルが弾けて絵を送っては難しくなり、再び日本へ

今度は広島県へ、福山市で30年近くの人生を沼隈町と内海町で過ごしている

 

えかきはず~と好きな絵を描き、生きております

自分が好きなことをしながら人生をまっとうできるのはとてもしあわせだといいます

皆様に支えられていることを忘れないようにしたい

そして幸せな人生を共にし続けたいえかきのつまです

しあわせになるためには3つの気持ちをわすれないようにしたい

感謝の気持ち

尊敬の気持そして

おもいやりの気持

どれか一つではなく3つとも

これらのことを忘れずに、実行したらツキ、しあわせは近づいてくるかしら?

皆様とも共有したい

 

小川マリアイネス拝

 

えかきの妹さんたちと京都にて

 

 

Twitterでフォローしよう

おすすめの記事