父と街を歩いていると彼氏?、独身の頃のおとうと買い物してると夫?

 

 

十代の頃、父と街を歩いていると彼氏?と言われた

父はうれしかったかどうか聞いたことはない

母は老けて見えていたのか父を夫ではなく、息子さんですか?と言われ面白くなかったと思う

父は1929年12月30日生まれの巳年、母は1931年2月1日のひつじ年であるが1歳違いのような感じだった

 

鹿児島県、財部、桐原生まれ、育ちの父はもっと大きな農業を夢見てアルゼンチンへ呼び寄せにて移住

何年かお茶工場で働き、独立した

機械なしで山を切り開き開拓した

 

 

 

 

 

 

苦労の連続だったのでしょうけれど、子供達にはそう見えなかった

母が「旦那は体が丈夫だから助かった」と  私と兄以外、4人の子供の出産は父が助産師を

両親のこと、語ることは永遠とある

月日が流れるのは瞬きのようにあっという間に、父があの世へ旅立って1年になる

気が付かなかったのですが私が大好きな数字29日が命日になった、忘れない為に?

 

アルゼンチンの高校の卒業式は結婚披露宴みたいに豪華できらびやか、生の楽団と恰好もはれやか

日本の卒業式と違って、泣く人などいない、新しい旅立ちのウキウキ感満載である

日本ではしくしく泣かれる親が多い。娘も卒園式や発表会で泣く

意味ワカメ?わかるような、わからないような

 

 

ドレスは母の手製

父が泣いたのを見たことがない、いつだったか直接聞いた「パパも泣くことがあるの?」と「ママが死んだら泣くだろうなぁ~」

母が亡くなった時に私は近くにいた、父がトイレへ入って出てきた、泣いていたのだろうか、泣いていなかったのだろうか、、、下の妹がパニック状態で父が「泣いても生き返って来ないのだから、、、と言ってた

 

結婚披露宴では父は小柳ルミ子の瀬戸の花嫁を歌った

瀬戸は日暮れて 夕波小波
あなたの島へ お嫁に行くの
若いと誰もが 心配するけれど
愛があるから だいじょうぶなの
だんだん畑と さよならするのよ
幼い弟 行くなと泣いた
男だったら 泣いたりせずに
父さん母さん だいじにしてね

岬まわるの 小さな船が
生まれた島が 遠くになるわ
入江の向うで 見送る人たちに
別れ告げたら 涙が出たわ
島から島へと 渡ってゆくのよ
あなたとこれから 生きてく私
瀬戸は夕焼け 明日も晴れる
二人の門出 祝っているわ

 

 

この時まさか瀬戸内に長年住むようになるとは想像もしなかった。この歌の歌詞とはちょっと違うけれど、今さながら親の気持ちがずしんと伝わる、毎日マルコ水産へ出勤しながら口ずさみ父を偲ぶ。19歳での結婚を許してもらったけれど、心配だったのでしょう

子供は、男の子2、女の子2ほしかった。でも父に言われました、3人にしとけと

6人も授かった両親、不思議に感じ父に聞いた「なぜ?」で言われたこと「子供のことは死ぬまで心配、結婚したらしたで、、、」遠い日本に住んだ私が一番心配をかけたと今さながら申し訳なく思う

 

すぐ下の弟の結婚披露宴

 

俺より大事なのか?とえかきに叱られるが、宝であるアルバムをみていると両親との旅行も結構したと思う、妹のハワイでの結婚式、アメリカ、アルゼンチン北部、日本へ里帰りした折には九州へは車で一緒に行った

 

妹の結婚式ハワイにて

 

新郎新婦と父は借り衣装、父のクリスチャンディオールのが一番高かったと大笑い

 

 

アメリカ、フロリダ州にて

 

 

 

えかきの母、友人とアルゼンチン北部へ

 

 

移住して28年ぶりに里帰り

 

 

 

 

一人アルゼンチンへ里帰りをしたときに、父が国際空港のエセイサまで迎えに来てくれてた、里からは1300kmほど離れている

心の中には思い出は尽きない、ある方だと思う、父の誕生日には、色々と長電話したっけ~

 

弟にいたずらされて、父の顔に書かれて笑いが止まらない一人のいもうと

 

30時間の長旅は年を取ると体に応える、二人とも疲れ顔

 

 

すぐ下の妹が松の下の家系図を作りたく情報集めを日本にいる私に託した、鹿児島の従妹たちや叔母ちゃんにお世話になりました

戸籍謄本が手っ取り早いと思い、それを申請していただくまでがちょ~たいへんでした。個人情報保護法のため苦労しました

7人兄弟だと父から聞いてた。 戸籍を取り寄せびっくり!10人だったと最近知る、父はしっていたのだろうか?

コロナで旅が出来ず、里帰りも。父の一周忌にせめてこのブログに父のほんの一部を記する。パパがいなくなって寂しいです。

時がこの気持ちを穏やかにしてくれる日を待ちながら  娘より拝

 

お酒が好きだった、鹿児島のイモ焼酎が一番、侍の門とか高級なのをおみあげに持って帰っても、霧島のパックが懐かしいのか特に喜んでいたのには少し悲しかった

父のお酒の逸話はいくらでもある

あの世へ旅立つ時には多分孫たちがお棺にウイスキ-を入れて持たせている写真がある

 

 

あの世でも皆様と楽しく飲んでいると思えるようになったら、娘は穏やかな気持ちになる日が来るでしょうか?

このように92歳の人生を終えた、一周忌の法事に参加できない私はアルゼンチンから一番遠い日本で皆様と心で通じ合いたい

 

 

 

マリアにとべろんべろんに酔ってても思い出してくれてた

92歳の誕生日孫とひい孫に囲まれて 2020年12月31日

 

2021年1月29日は海苔工場の夜勤で、父の死を知らされた。

母の死は何故か泣けなかったけれど、父の死は泣けてしょうがなかった。アルバイトから家へ帰り主人に伝えたら「いい死に方だった」と言われとてもショックだったのを思い出す

一人一人の去り方は違う、母は痛みに苦しみ、付き添ってて何もしてあげられないのが辛くてたまらなかった

母が亡くなったことを知らせたら、ある人が「私もそのようにこの世を去りたい」と言われこれもショックだった、そして痛みを耐えながらは嫌ですと反発した

好きな人の死はどんな形であれ言葉に表せられない程悲しくてやりきれない

 

 

 

 

えかきに描かれた一部の絵たち

 

娘のミルタと父

 

 

親子、畑にて一服

 

自分のいちばん大事なたからもの。手の中に握りしめている大切な珠玉という意味。最愛の妻や子どもをさす場合が多い。

 

 

 

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