1981年8月29日次男京都市で誕生

初めての日本

京都市御所のしだれ桜 私が初めて日本へ来て住んだのは主人の里である京都です。子供のころから日本映画上映の初めに見てた日本のドキュメンタリ-、国の宣伝、外国へアピ-ルでは京都の四季の美しい景色、金閣寺の冬景色、清水寺や平安神宮、そして秋の伏見稲荷大社や嵐山の渡月橋を拝見してた。 もう50数年前のことである。 絵描きの主人に出会いアルゼンチンで結婚。
長男のタケルが生まれて、4歳になるかならないうちに一緒に日本へ、主人のえかきは一足早く帰国してた。 何回アルゼンチンと日本を行ったり来たりしたかは覚えてないのだけれど、主人と一緒に飛行機に乗ったのは2回? 今日は次男の誕生日である。三人の子供を授かりましたが日本での出産は彼だけ。 京都の日赤で、ゲゲゲの鬼太郎とあだ名がついていた産婦人科医にかかっていた。優しくて、面白い先生でした。 あの頃から計画出産が流行りだした?出産は何日が良いですか?と聞かれびっくり。 学生の頃は寄宿舎に入っていて、寄宿舎番号が29でしたせいかこの29がなんでかわからいのですが、好きで、深く考えず29!と返答したので、29が土曜日。日曜日でもなかったので決まり❣ アルゼンチンと日本は文化の違いも影響してか、ホームシックも?か、順調に赤ちゃんの成長が進まず、途中で入院も。 炊き立てのご飯の匂いが嫌になり、食欲がなくて、食べられなかったので、つわりもあり、入院。 日赤は大きな病院で、出産日を指定された日には大勢の妊婦さんが一つの部屋でお産を待っていた。それぞれが陣痛で悲鳴を上げながら、個々の出産が近づいてくる妊婦が順番にその部屋を出ていく。 一切声を出さない私に看護師さんは驚いていた。 女性が母親になる瞬間は特別で、初めての子でもあっても6番目の子供であったとしても感動的である。 男性なしではもちろん子供は産めないのだけれど、お父様にはなりますが母になる妻にかなわないのはこの瞬間からであろう。 出産の痛みは言葉では表現できないのであるが、もう絶対嫌、もう子供は生みたくないと考えていても、生まれた赤ちゃんを見るなり、すっかり痛みのことなど忘れて、また次は欲しくなるのは女性としての本能かも。 この感覚は私だけかもしれませんが、長男、次男、長女の出産の時は同じでした。 次男の名付親は主人の小学校の担任にお願いして、いくつかの中からカタカナでヒトシと命名しました。この先生は全校生徒の前で主人の絵をほめて下さり、紅葉の絵をかかげて、みせて”モミジが燃えているようでしょう?”と言ってくださった。 その影響もあり、絵描きの道を歩んでいるそう。 京都での次男の出産から今日で40年。あっという間に月日は流れ次男は今日で40歳になった。本人は結婚して親離れして、妻にべったり。 そして私たちは子離れして、少し寂しさを感じている今日この頃ですが、自然の成り行き、流れなので良しとします。 親離れ、子離れで大切なのは距離感だそう。 関東と広島、ちょうどよい距離感かしら?
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