悔い残る夏休みにタケル以外、キャンプしながら北海道へ家族旅行とは

 

 

過ぎ去った日は戻らない

 

家族で過ごす時間は限られている

 

日本は夏休みにはクラブ活動がある

 

ある次男の担任の先生に言ったことあり「先生も家族サ-ビスされたいのでは」

 

アルゼンチンはアルゼンチン、日本は日本  郷に入っては郷に従えでしょうか?

 

そうでした、高校生の長男はバスケのクラブ、休みたくなかったのか、好きな彼女がいたのか知りませんが家族旅行へは行きませんでした

 

今になって思えば残念で仕方ありませんが、後悔しても後の祭り

本人はその方が嬉しかったのかもしれません

 

背が高くなりたくて沢山牛乳を毎日 次男の方が背は高く 人生思うようにはならないです

 

長男を残し1994年7月24日に沼隈を出発

日本海~友人のいる長野県~妹がその時住んでた東京へと長い旅の始まり

沼隈からは乗用車のファミリアで、岡山の世界一?大きいと言われてた親子水車を見学そしてその日の夜は浜坂でキャンプ

 

 

喧嘩も良くしてたが仲良しのきょうだい、歳は三つ離れているが

 

 

余部鉄橋ではなぜかヒトシは拗ねてた

     余部鉄橋  事故

 

昭和61年(1986年)12月28日日曜日午後1時25分頃
鉄橋を通過中の香住発浜坂行き回送列車が日本海からの突風にあおられ、機関車と客車の台車の一部を残して7両が転落、真下にあった水産加工場や民家を直撃しました

この列車は、団体臨時の和風列車「みやび」、山陰お買い物ツアーなどの一般客174人を乗せて午前9時26分に福知山駅を出発、11時49分香住駅に到着し乗客を降ろした後、浜坂駅に回送するため午後1時15分香住駅を出たあとの落下でした。
橋脚に残ったのは先頭のディーゼル機関車1両と客車の台車3組(1両半分)だけで、現場は約50メートルにわたってレールが曲がりまくら木もずたずたに。
この事故で山陰線は不通となり、直下の国道178号線も一時不通、電話回線も切断されたのか一部地域が一時不通の大惨事となりました。
鉄橋の向こう側に見えるのが、仰向けになって落ちた列車です。

 

工場があった場所です。落ちてきた列車はここにあった工場を直撃し、建物は跡形もなく壊れてしまいました。

客車内に居た車掌1名と加工場の従業員5名の計6名が死亡、客車内に居た日本食堂の従業員1名と加工場内の従業員5名、計6名が重症を負いました。
当時工場で働いていたのは12名、奇跡的に助かった人も心に大きなショックを受けています。民家の方は、半壊状態となりながら、けが人はありませんでした。

12月31日午後3時には山陰線はほぼ復旧し開通、国道178号線も同日午後6時開通。

 

連日徹夜で撤去作業が続き、車両は分断されてクレーンで引き上げられトラックで神戸須磨区の国鉄鷹取工場へ移送されました。
事故当日は日本海を低気圧が発達しながら通過しており、最大風速25メートルを越す強風の荒れ模様でした。
風速25メートル以上の風が吹くと鉄橋付近に置かれている自動風速発信機から列車集中制御装置(CTC)司令室にデータが送られ列車を止める警報システムが設置されていました。

事故後、国鉄は風対策を強化、風速20メートル以上の風になると鉄橋手前で列車を停車させています。
その結果として、年間約300本以上が運行中止となっています。
現在、又今後も沢山の課題が残されたままの鉄橋及び山陰本線、人災事故といわれた国鉄も今はJRとなり、事故の教訓を生かした対策が施されているようです。

 

昭和63年10月23日、加工場のあった場所に聖観世音菩薩が建てられ、毎年12月28日には法要がいとなまれます。

地元民からも長い間、おそらく生まれた時から親しまれ、愛されつづけてきた鉄橋での思いがけない突然の事故に遺族の悲しみも多大なものだったと思います。
その思いがこの観音像にこめられているのでしょう。
いつ見てもお花が供えられていて、観光に来られたお客さんも立ち止まり手を合わせて合掌する姿が見られます。
その姿は、亡くなった方、遺族だけでなく町民・地元民の悲しみの心をも癒してくれているように思えます。

思い出の余部鉄橋の紹介からの引用です

 

事故をテレビのニュ-スで見たような、京都に住んでた頃、びっくり、本当に驚いたこと記憶によみがえる

 

本題に戻ります

 

幼い頃アルゼンチンでママゴトをして遊んだ友人宅で一泊お世話になる

 

須坂から妹の住む東京、大都会へ

ディズニ~、江戸東京博物館、葛西臨海水族園と楽しむ

 

ビ-ルの泡が大ウンチにしか見えないと言う子供達、大笑い

東京ディズランドには二度と行くかとぼやくえかき

何をするのにも列をなすことがいら立たさせたよう、本当にそれっきり訪れてないがつまは何回も行って、子ども心になり、楽しんだ

遊具によっては、音楽は夢への誘いであったり、ひと時我を忘れて夢の世界へ運んでくれるのがいい

 

写真ばかり撮られる子供たちは偶に不機嫌になる また?と

 

いつだかエレクトリカルパレードを見たが、この時はどうだったのかしらと思い出せない

初めて見た時にはとっても美しく、何も考えられず子供達と楽しんだ記憶がある

 

さてと、銀行員だった身内の方が友人の別荘を借りてその週末は鹿島浦で過ごす

ある時から縁遠くなり、音信不通だった彼が10年も前に亡くなられていたことはえかきのつまにショックを与えた、想像もしてなかったので

縁あって、彼とあちらの家族と私たちの家族は沢山の良い、悲しい思い出が走馬灯のように巡る

人生はむなしいと思えるひと時

 

ここで乗ってたファミリアとタウンエ-スに交換した

度胸?か分かりませんが練習もせずにえかきのつまは運転した、三人の命を預り

怖いもの知らずといつも言われるが、そうでなきゃえかきとは結婚はしてないわ~と自慢する

あぶくま洞へ、そして岩手山にてキャンプ

 

 

 

次の日は小岩井農場へ、今でもフアンである特にヨ-グルトの

 

 

子供は大人と違って好奇心旺盛である

 

 

青森から函館へフェリ-で渡る

旅にはハプニングがつきもの、晴れ男、女なのにざーざ-の雨

夕食にと海鮮丼を食べて、雨の中を大慌てで車に戻る

えかきのつまの運転手はタウンエ-スのドアを開けようと鍵穴に鍵を突っ込んで開けようとした

人生で初めてで今まではそれっきりない事件?

なんと鍵が折れて車に入れない

さてどうするかと、雨宿りに建物の屋根が少しあるところで考える

えかき鍵屋さんを電話帳で探し電話した

夜遅くそして雨の中来てくださって解決したが、無計画の家族は泊まる場所なく函館山へ上がり、寝ることを試みるが凄い風で飛ばされそうだった

過ぎてみればこれもいい思い出です

 

 

倶多楽湖畔へ

 

 

懐かしいトヨタのタウンエ-ス

そして写真はのこってませんがひと時を登別温泉で過ごす

滑り台もあったようなはえかきのつまの記憶、確かでしょうか?、、、

 

小樽見学、すぐ話しかけるマリアイネス、そして写真まで一緒に写している

でも今では何を話したかは全然覚えてない

 

 

 

そしてその夜一泊は小樽の自然の村でキャンプ

とっても面白いキャンプ場、荷物はりゃか-で運ぶのである

子供達は大喜びしてた

ただ次男は一度くらいはバンガロ-に泊まろうやとせがんだが、願い叶わぬ

 

 

小樽から舞鶴までフェリ-

何キロ、何千キロ一人で運転したのかしら?若かったからできたのかもしれないと思うこのごろ

 

フェリ-のベンチで寝るのは最高でした

 

 

眩しい、眩しくて目を開けてられない

 

舞鶴についてもえかきのつまには福山までの道のりを運転しなくてはならない責任?があった

良い思い出に残る旅、でもタケルも一緒だったらもっと良かったのに~とつくづく思うのである、、、クラブと家族どちらが大事でしょうか?

 

小川(松ノ下)マリアイネス拝

 

小川憲一豊実の北海道の絵たち

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この記事が気に入ったら
フォローしよう

最新情報をお届けします

Twitterでフォローしよう

おすすめの記事