横浜港から船で
殆どのえかきはヨーロッパへ向かいましたが、人の反対を好むえかきはアルゼンチン行きを決心。
横浜から下駄を履いて船へ乗船しょうとしましたが、音がするので下駄はだめだと、じきじき船長さんに丁寧に頼まれ、本人の革靴を貸してくださったそうです。下駄は没収された。いや、目的地に着くまで預かってもらう。
ラフな服装に、リュックサックに革靴は想像するだけでおもろい。
船旅は2か月ほど、とっても楽しかったそうです。
ブエノスアイレスに着いた時にはほんの少しのお金で、美術館を見学、食事をして、宿泊代を支払ったらもう残り少なく、若かったから不安は少しも感じない。
延べ15年間南米各地を放浪しながら絵を描き、そして憧れのペル-に半年ほど滞在していた時に父親が危篤との電報を受け取る。
そっそかしいえかき?それとも無責任な役所の方々がえかきのパスポ-トを無くしすぐに帰国出来ず。
ペインティングナイフで描いているときにポキッとおれた、そして釣りをめったにすることはないのだけれど、たまたま釣った魚は大きな目でにらみつけてるように見えたとのこと。
そのころに丁度お父様が亡くなられた、知らせだったのかも。本人は父君(ト-クン)と父のことを呼んでいるが、会いに来たのかなぁ~と感じたそうです。
ペル-から日本は遠い、役所で行方不明になったパスポ-トなしでは飛行機に乗れない。帰国は遅れました。
死に目に会えなかったと今でも嘆き,後悔しているのかも。
もちろんお葬式にも間に合いませんでした。父君50歳、1920年生まれ。
短い人生でした。残念ながら私は写真でしかお会いしたことはない。たまにぽつりとえかきはいうことあります。会わせたかった、お前をと。よろこんだだろうなぁ~
戦争も体験し、特攻隊の生き残りでしたが、体が弱く、結核でお亡くなり。写真で拝見しますと大きな目が印象的。
そのころの教育の影響は大きく、自分だけが生き残ったのは罪のように感じてささやいていたそうです。あと何日か戦争が長引いていたらえかきはこの世には存在しなかった。
人間の運命は本当に不思議なもの。
日本学校の先生をMonte Chico にて
ペル-へ行く前に21人の子供たちに日本語を。絵には20人の子供たちしか描かれてない。 あけみは写真が大嫌いでいつも逃げ回ったり、隠れたり。
よほど楽しかったのか、この体験を小説にしてます。”太陽の子供達”は2年ほどの生徒たちとの触れ合いを書いている。
お父様が亡くなり日本へ帰国して、3年間京都で暮らし、そのあとは移民として再びアルゼンチンへ。一回目は長~い船旅、二度目は飛行機はあっけなかったそうです。
小川憲一27歳,マリアイネス18歳とクリスマスパ-ティ-で出会う。一年後に結婚、二人の人生が始まってしまった。
出会いは必然でも、別れは突然。。。