年末になると父親を思い出すえかきのつま30日生だが大晦日に祝った

B!
鹿児島の里にて
父、兄と母

 

昔の出来事が脳裏を巡る事は自分も歳を取ったのだと実感する今日この頃である

 

父、松ノ下實は1929年12月30日に鹿児島県の桐原町で生まれた

生前の頃には父は七人きょうだい、三男と聞いていた

両親は亡くなり、アルゼンチンに住むいもうとが父や母の家系図を作りたく日本に住むえかきのつまに戸籍をとお願いしてきた

このことで親戚の何人かにお世話になりました、個人情報とやらで誰でも申請は出来なくて困りましたが、、、

長い時間を費やしやっと届いた戸籍を見てとってもおどろいたのが、七人きょうだいではなかった

何人か、生まれて間もなく亡くなっていた

その時代には普通にあり得ることだったのでしょうか?

 

アルゼンチンへ移住する前、中谷母の里にて

 

父のおとうとは母のいもうと結婚
初めて鹿児島訪問の折に叔父ちゃんの後ろ姿が父にそっくりなのにはチョ~おどろいた記憶蘇る
今ではみんなあの世で会っているかしら?

 

高校生の頃、街を父と歩いているの見られ、彼氏?と同級生に冷やかされていた

 

1973年高校卒業パ-ティにて父と

 

 

ワルツを父と踊る

 

 

えかきのつま19歳で結婚
未成年者なので父の承諾が必要だった

 

 

 

幼い頃には大晦日を祝っていたのか記憶にはない、でも父の晩年には必ず30日ではなく除夜(じょや)31日に誕生祝も兼ねて新しい年を迎えていた

 

2017年に一人で里帰りを、父はブエノスアイレスのエセイサ国際空港まで娘を迎えに

エセイサ国際空港にて

 

ブエノスアイレスには一人のいもうとや甥や姪が何人か住んでいる

必ずいもうとのマンションで何日かお世話になる

父もゲ-トボ-ルが大好きだったので、大会の時には首都へと楽しみに旅行をしてた

 

88歳で孫と腕相撲

 

いもうとのマンションにて

 

この年は父の米寿祝いでした

 

えかきのつまは6人きょうだいである
お兄ちゃんはアルゼンチンへ移住して私が生まれて三か月後に事故死した
久しぶりにきょうだいが勢揃い

 

大好きなお酒?を孫に飲まされ?、、、
一番好きなのは芋焼酎です、鹿児島出身ですもの

 

娘と嫁に茶化されて、インディアンに?

 

苦労のしっぱなしと言ったけれど、いつも笑顔の写真ばかり

 

歌うことも大好きでした

 

孫たちからのプレゼント

 

日本ではあの頃滅多に手に入らない森伊蔵を孫が働いていた上司からもらったそう

 

銘柄色々をおみ上げにともって行ったが、一番喜んだのはパックの霧島にはえかきのつまはガッカリした、やはり思い出の芋焼酎を好んだ

 

Corrientesで黄金の魚、Doradoを釣って嬉しそうな父

 

孫たちと
Mirta&Raulito

 

Mercedes Benzのトラックも運転はえかきのつまも知らない

 

88歳でまだ庭の手入れしてた

 

アルゼンチンの12月1月は真夏
この様なトカゲが畑にウロチョロ
ドアを解放していると台所にまで入ってくる
昼寝をしているとゴミ箱をあさるような音にびっくりして行って見ると堂々として逃げようともしないのである

 

お正月のお煮しめにと牛蒡の収穫

 

郷の畑は赤土、白い運動靴を雨の日にはくと汚れはとれない

 

夏には黄金の雨(lluvia de oro)がPuerto Ricoの街には咲き乱れる

黄金の雨と呼んでいるが

 

2021年1月30日に父は91歳であの世へ行ってしまいました、母親よりは長生き

 

父91歳

 

母の13三回忌を終えた後のこと

 

父の訃報をえかきのつまが受けたのは夜勤を初めてで最後にしていたマルコ水産の海苔工場にて

コロナ禍の最中だったし、急にはとっても行けない距離、何でこんな遠い所へ嫁に来たのかと思ったりした

仕事を終え帰ってえかきに伝えたら、いい死に方ではないかと

凄く悲しかったのを今でも忘れない

お別れが出来てないことは後を引きずるのである

 

 

母のお葬式

 

2007年10月4日に母はこの世を去りました

痛みを伴う癌でモルヒネが効かずとっても苦しんだ

息を引き取る最後の何日かはモルヒネが効果あったのか穏やかに?ではなかったことを思い出しました

死ぬる数時間前には息が出来なくて、窓を開けてと叫んでいた

苦しんでいる母を見ていると、人間って残酷な動物、助けてと叫ぶより、どうにか早く楽にと願っていたえかきのつま

最後は穏やかに、眠るように逝った

お別れや、色々な話もして、お通夜、お葬式と残された父や身内と一緒できたことは精神的にはえかきのつまには良かったと思う

母は娘、えかきのつまに聞くのです「マリア、どの服を着よう」どこへ行くのに?「それはお葬式にだよ」「浴衣がいいかなぁ~?それともあの緑の服がいいかなぁ~」

すぐ下のいもうとに聞いていた「マリアいつ日本に帰る?」ママが死んでからでしょうとあっさりと言ってた

 

いもうとの結婚式ハワイにて
母はこの緑の服のことを言ってた
レンタルした父のディオルのモーニングの方がいもうとのウェディングドレスより高かったのには大笑いしたもの

 

母が亡くなった後父が気持ちを紛らわすようにと子供たちがえかきのつまと日本へ行くようにと進めた

沢山の楽しいエピソ-ドはあるが、ここには書ききれないので少しの写真を

 

能登原のとんど祭りにて
三世代、父、娘とえかきのつま

 

やはり父は鹿児島への里帰りが一番懐かしかったのでしょう

母の親せきや、父の身内に報告がてら財部のお寺で法事を

でいつも集まりがあるとなんこ大会が始まるのである

負けた人がお酒が呑むのである、日本酒ではなく、芋焼酎である

皆さまとっても楽しそうである

 

叔父ちゃんと父と、えかきのつまのいとこ
父に一番似てるかしら?

 

宮崎の楽しい叔父ちゃんと父

 

父の甥っ子夫婦の家の前にて

 

 

いつも、父は毎晩髪を整え、親戚の手作りの仏壇の前で手を合わせていた

アルゼンチンへ移住してもやはり本家のしきたりに添って行動してたのかなぁ~

 

日曜日に仕事をすると昔は良く言われたものです
クリスチアンの多い国、日曜日は礼拝へ
父親は笑いながら、仕事をしなくては生活できませんと。。。

 

25歳でアルゼンチンへ移住して、91歳で永眠するまでの66年間の父親の人生はどうだったのかしらと最後になった里帰りはえかきと二人の折にえかきのつまは聞きました

”いつが一番良かったと思う?”

ず~と苦労をしてばかりとぼそっと言ったそのフレ~ズは、娘としては結構ショッキングでした

私は経済的には一番不安定なえかきとの結婚は相当両親には心配をかけたのではとふっと思った瞬間でした

 

 

最後の父の誕生パ-ティでこの動画をいもうとがえかきのつまに添付

 

父生前最後のお誕生日91歳
子供達と

 

父の91歳の誕生日孫たちと

 

 

移住して両親の初の里帰りは28年ぶりでした

えかきのつまは京都住まい、長男のタケルがいて、次男のヒトシはいつもおじいちゃんに抱っこされている写真が多い

昭和30年に移住したときの日本と28年ぶりの祖国は結構変化してたのでは?

今でも覚えているのは同窓会をしてもらった父が、美人だった先生がおばあちゃんになってたと悲しそうに言ってた

 

 

長野へ知り合いに会いがてらスキ-を

 

 

和歌山県にて?

 

 

同窓会での父はうれしそう

 

両親沖縄にて

 

父の還暦祝いには小川家もアルゼンチンに京都から戻って?えかきからすれば移住?していた

子供の教育には日本よりアルゼンチンの方が良いのではと思ってが理由だった

 

還暦祝いに赤いちゃんちゃんこを

 

えかきがおもしろいゲームをと考えた、目隠しをして握手する手が妻の手かわかるか

 

妹のミルタと握手、、、

 

実際の妻(母)と握手
母は楽しそう

 

皆で大笑い

ちょっとした演劇も絵描きが考え、家族で舞台に登場

えかきのつまは苦手なので見学のみ、思ってもみなかったすぐ下の良くはしゃいでいたいもうとがとっても緊張してた

 

こうして人生はアッと言う間に過ぎ去っていく

 

アルゼンチンで三年か四年住んでいる間に一度ブラジルへ旅行をした

えかきのつまは19歳で結婚をしたので、あちらでの両親との旅行は初めてで最後

 

Camboriu,ブラジルにて
小川家、両親、いもうとのミルタ、おとうとのアンヘル

 

 

おとうとと娘のミルタ

 

 

えかきのつまのお気に入りの一枚
Colonia Lujanにて

 

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分かりにくいかも知れません、日にちが前後したり

でも一言では語れないえかきのつまの父です

娘はやはりフアザコン?、でも親離れはしていたと思いますが、、、

 

えかき小川憲一豊実が描いた父の絵たち

 

板に油彩 父と孫のミルタ

 

 

和紙に水墨 両親とえかきのつま

 

 

和紙に水墨 父と孫のタケル

 

 

畑に似て 父と弟、アンヘル 油彩

 

 

和紙に水墨 父と孫のミルタ

小川(松ノ下)マリアイネス拝

 

 

 

 

 

 

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