若いカップルの婚礼写真撮影を観ながら思い出す遠い昔の自分の結婚式
そうなんです、仕事場でしあわせ一杯のカップルの写真撮影を見て、大昔に耽る
もう47年程前に自分は縁あって絵描きと結婚してえかきのつまになった、短いようで、長いようで、昨日の出来事の様でもある
あぁ~人生はアッと言う間に過ぎ去っていった
毎日を大事に過ごそうと思うのである

Registro Civil への婚姻届書

”生まれるはワシの力でなく死ぬるもワシの力でない結婚は少しはワシの力である” えかきが作った詩。
結婚は太い鎖で首を繋がれるとアルゼンチンではジェスチャを交えて冷やかしますが、特に男性に向けたことわざ?とは自由がなくなると言う意味かも
私達はブエノスアイレスで結婚披露宴を、日本では婚姻届書は提出するだけだと思うのですがアルゼンチンではちょっとした式をします
保証人の中村正明さん

 

もう一人の保証人マグナ

 

えかき小川憲一豊実

 

えかきのつまになった松の下マリアイネス
保証人が二人、そして参加されたい人は誰でも、知人、家族
私の里とブエノスアイレスは1300kmぐらいの距離があり、バスであの頃は24時間かかりました
19歳だった私は父の同意書かその場でサインして貰う必要が
母の手製のドレス
でも忙しくてその日には来てもらえませんでした
このピンクの服は母が手縫いで一日で作ってもらったもの
あくる日が教会での挙式、そして夜には披露宴。えかきはカトリックではないのだけれど、三回ほど前もって神父さんの話を聞かないと行けなかった
スペイン語もあまりわからなく、すぐ眠るので何回もヒジで突く
あの頃はシャイで、無口な私はとっても恥ずかしい思いをしました
教会での賛美歌、声がとっても美しく、透き通るようなAve Maria を生で歌ってくださったのには感動的でした

教会での挙式 in Buenos Aires

赤のドレスの友人にウエディングドレスを縫って頂きました

 

 

小川憲一豊実描く 油彩

 

 

今では後ろ姿の方がいい 神父さんのお話覚えてません

 

 

指輪の交換

 

 

父親に似ていると言われてきましたが、年を取ってからは母親似かしら?

 

 

ドレスを作って下さった友人の旦那様

 

 

小川憲一豊実描く  油彩

 

 

1976年3月披露宴の前にカトリック教会で挙式を
私達の後に挙式をされた新郎新婦はお金持ち、軍人の家族のようでした
教会の入り口から主祭壇に向かう中央通路の両脇には生花での飾り付けや教会内全体はその方たちのお陰でチョ~豪華‥
もしかしたら生でのアベマリアの美しくて透き通った声の独唱をパイプオルガンと共にも御願いされたのかも?、、、
絵描きと自分の式は全部家族や友達の手作りの結婚披露宴でした
えかきは詳しく覚えてない
私も全然です
今頃ながら感謝の気持ちでいっぱいです
ありがとうございました
アルバムの写真を見ながら思い出して書いています
ウェディングドレスは友達の手製、モデルは関係なくとても素敵な衣装に、着付けも彼女のマンションでお世話になりました、そして今回の許可なしの写真アップもお許しください
父親と長い中央通路、バ-ジンロ-ド?を歩き、新郎、私の母、そして日本からお母様は参加出来なかったので、知り合いのご夫婦に親代わりを、待っておられますところまで、そして私を父から新郎へと渡す?モノではないのだけれど、娘を取られた気分だったのかしらと今になって思う
スペイン語があまりわからない新郎はいつ誓いのキスをするかが気になって、そしていつ si を言うのかとうるさく聞く
文書での説明よりは写真を証拠に存分に笑って下さい。神聖な雰囲気など何処かへ、緊張はしたとは言ってますが
はっきり覚えてないのだけれど、一時間前後の挙式だったように思う
あ!フラワーシャワーは抜きでした~”お祝いしたり幸せを祈ったりするだけではなく、“魔除け”や“お清め”の意味があるみたいです”
 ありませんでしたけれど、皆様の笑顔は最高のプレゼント!

"あんた18の私にもどしてよ、おれも18のお前にもどしてほしいよ” 憲一作

 

      スペイン料理のレストランで披露宴
教会の挙式の後には日本とアルゼンチン文化が入り交ざった披露宴
父の挨拶
友人の挨拶
大学の同級生

 

初めは日本式で進行されます。
  ⁂新郎新婦入場
  ⁂ 挨拶 仲人さん
      ⁑父
      ⁑私の中、高と大学の友人
      ⁑新郎の友は急に指名され、しどろもどろに、上がってしまい何を言ってるかわからなかったほど
誰の仕業か知りませんが、正明さん、ごめんなさい
  ⁂ 乾杯の音頭をして下さった方が高砂を、とっても渋くていい声でした
   そして食事をしながらワイワイと歌やかくし芸を
仲人さんの幼い子供たちが黄金虫を、だんだんリズムが早くなっていきとっても恥ずかしそうで可愛かった
   父は瀬戸の花嫁を、まさか、歌の内容とは違うけれどこの瀬戸内にこんなに長く住むようになるとは、あの時は夢にも思ってなかった私。
   両親の銀婚でもあったので花束を贈呈

”もろたったんやのにえらそうにきてあげたんやのにえらそうに”  小川憲一作

アルゼンチンと日本の違いは披露宴は夜明けまで続く事がある。午前0時から大体ダンスパ-ティが始まり踊り明かす感じです
ウェディングケ-キはすぐ下の妹の手作りで、イグアスの滝があるミシオネス州からバスでブエノスアイレスまで運んできた
24時間ほどの距離、1300キロ
ケ-キとケ-キの間にはワイングラスに生薔薇を入れて逆さまにしたものを支柱に
同じ赤い薔薇を新郎の背広の胸ポッケに
ケ-キトッパ-の下に白いリボンに結んだ小さなアクセサリ~、おもちゃみたいなのが隠されている
その一本のリボンにはリングが
リボンの数だけの独身女性だけが参加をして、ワイワイ、ワクワク、にぎやかに、一人ひとりリボンの先を持っていっせいに引っ張るのです。指輪をひいた人が次に結婚すると言われてる
ブ-ケも新婦が後ろ向きになって、リングと同じくブ-ケを取った方が次に結婚をすると
ネットでブ-ケの由来を検索して読むと面白い!
ライスシャワ-は教会の挙式の後に外に出て来る新郎新婦に、ゲストがお米を降り注ぐセレモニ-は私達は無しでしたが、人生豊かで子宝に恵まれることを願った風習である
ケ-キカットのあとにはダンスが始まり、アルゼンチン風の時間に
一番にワルツを踊ります
新婦は父親と、新郎は母親と、そして代わりばんこに交代していき、楽しく、にぎやかに踊り明かす
眠たくなられた方は好きなときに適当に帰ってゆく
何時に披露宴が終わったかは忘れてしまいましたが、長~い一日で体は疲れ、もう二度と結婚はゴメンだと実感した新婦でした~
後アルゼンチンの習慣では行事の殆ど、特に結婚式は家族みんなが参加をしますが、残念ながら下のきょうだい三人は来れなくてとっても寂しかったです。里での披露宴でしたら可能でしたが、、、
えかきのつまであることは特別な人生ではあるけれど、自分には向いていたと思う、後戻りはできないし~
            小川(松の下)マリアイネス拝

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