食あたりになったとき、自分の体は自分の意思とは無関係、まるで自分の体ではないよう
よい芸術にふれたとき、自分の頭で考えていることとは無関係に、鳥肌が立ったり、涙を流すことも
感性は育てるもの
ほかの世界、芸術と関係のない人たちみんなに芸術に触れていただきたいがえかきのつまとしてのささやかな願いかしら?
芸術に質を取り戻す生きる力を支えるのは本物の感動
山口周氏と泉谷 閑示(いずみや・かんじ)氏の対談から
1-物質的充足がもたらす実存的な問い
情報と物があふれている現代社会では、生きる力を失い、生きる意味を見出せない人が増えている
置かれた環境とのミスマッチにより生きづらさを抱える人も増加と山口氏
精神科医の泉谷氏は、生きる意味を見いだすカギは感動にあると説くが、現代の音楽をはじめとする芸術には感動を生み出す力が薄れているとも指摘
その原因はどこに?
人間が人間らしく生きていくために必要なものとはなにか
温度の低い悩みが増えている
泉谷氏が精神科医を専門とする著者に
「普通がいいという病」
「半教育論」
「仕事なんか生きがいにするな」
「本物の思考力を磨くための音楽学」
他多数
昭和の終わり、医者になられたころから10数年間くらいは「境界性パーソナリティ障害」、愛情の欠乏感から人に執着する、周囲の関心を惹きたくて自傷行為を行うといった病態を示すような方が多く、治療に苦労したそう
でおそらく2000年頃から減り始め,代わって広義のうつ病が増加
他人に絡むような病態から一人で静かに消えていってしまうと言うような変化
具体的で現実的な悩みや苦しみがあるわけではないけれど虚無感にさいなまれ無気力になる
生活はできていても生きるエネルギーに乏しい方々が増えている
ハングリーを行動のモチベーションとする時代が長く続いた
近年では急激に経済的な豊かさを手に入れ、利便性は飛躍的に向上し、情報があふれた
先進国に限った話かも、物質的な不足、不便さへの不満がある程満たされてしまうと、なぜこの面倒な人生というものを続けなければいけないのか、何のために生きているのかという、実存的な問いが生まれた
憧れる対象をつくる
物質的には満たされても、精神的な欠乏を満たしてくれるものがないために、幸福感ではなく虚無感に包まれてしまう
実は「仕事なんか生きがいにするな」というタイトルは編集者が付けた、もともと「現代の高等遊民」というテーマで書かれたものだそう
人間らしく生きるために大切なのは「世の中にはこんなに素晴らしいものがあると気づくこと」
2-生きづらさから救ってくれたもの
薬を使わない精神療法を行う泉谷氏
自己探求を支援する
実存的な問い、空虚さという問題には、心理学や精神医学はあまり役に立たないそう
大切なのは、患者自身の自己探求をいかに支援できるか
そのためには人間というものを全体的に捉える必要があり、芸術が必要
音楽と精神医学はつながっている
音楽は習うものではない
自分の内から出るものだと再認識する
一方でフランスの音楽教育には学ぶべき面もあり
音楽でも茶道や書道でも、すぐ習いに行きたがる
人に習うというのはかなり危険なことだと泉谷さんは言う
習うこと基本的な技術やノウハウが身に付きやすいメリットはある
一方でジャズやロックのギタリストなどには独学で始めて大成功する人も多い
習わなければできないという思い込みも捨てた方がいい
3-生きている音楽とは何か
生きている音楽には生命システムに通じる要素があると泉谷氏
感情の本体は愛だそう
規則性と偶発性の止揚
生命感があるかどうかということが、生きている音楽と死んだ音楽の違いである
曲つくりにおいても、頭でひねり出したようなものは、あまりよいものにはならない
何かが降りてきて手を動かされたというような感覚で生み出したものには、自然のエッセンスが息づいていると感じる、文学でも絵画でも
受け手の側にもそのあたりを見極める力がないと、芸術と名乗っていても芸術ではないものに騙されてしまうことになりかねません
感情が社会を前に進める
喜怒哀楽というのは様相としてはそれぞれ違いますが、その本体は一つ、愛だと泉谷氏は言う
心の奥底にある愛に邪(よこしま)なるものが近づいてきたとき、防御のために出てくるのが「怒」で、悲惨なものや気の毒なものと遭遇したときに対応するのが「哀」、楽しいもの、素晴らしいものに対しては「楽」と「喜」が対応、するというふうに、同じ愛でも感情としての表出の仕方が異なるということです
なので世の中を動かす原動力が「合理的判断=頭」ではなく「感情=愛=心である
心があまり動いてない経営リ-ダ-が多いのは気になるけれど、人々の悩みが温度の高いものから低いものへと変わってきたのと同時に自閉的な方たちが増えた
政治や経済の世界も、音楽などの芸術分野でも、「頭」と「心=身体」がつながっていない人々が権力を握る構造が日本だけではなく世界的に広がっている
「量」に負けず「質」を追求する
頭と心=身体がつながっていない人々が増えているという現代社会の問題点を指摘
問題を克服するために必要なのは、評価軸の量から質への転換である
「頭」と「心=身体」がつながっていない人が評価される社会
物事をほぼ頭だけで処理する
頭というコンピュ-タ-による損得計算、比較検計、シミュレ-ションなどが行動決定の基本原理であるため、冷徹に、人を蹴り落してでも勝ち抜くこと、何が何でも儲けるといったことを平気で行える
自身を他者からの観点で見ることが出来ず、独善的になりやすい傾向がある
頭と心がつながっていないことはうつ病を発病することもある、あるとき突然身体だけが壊れる感じになる
普通の人のうつ病は、悩んで、悩んでじぶんを責め続けた結果、身体が動かなくなるものですが、頭と心=身体がつながっていない人は、例えばある時突然に会社に行けなくなるという現象だけが起きる
だから本人もどこがわるいのかわからないし、同じうつ病でも通常ならば生ずるような自己否定の苦悩が,一切生じない
そうした自閉的な人が音楽をやると、練習を苦にせず機械のようになせるため、難易度の高い演奏もやってのけます
本番だからといって緊張もしないので、高い評価を得やすく、コンク-ルも上位に入選します
政治、経済ならまだしも、芸術の世界がそうした人に席巻されると、価値判断の軸が変わってしまう
普通の人が同じことをやろうとすると壊れます
それでダメだと思って音楽を諦める
そこが怖いところ、頭と心=身体が繋がっていない人の親だと、その子どもは一方的な強制や愛情不全が原因で自己愛や自信が持てずに悩むことになる
上司だったりするとまさにクラッシャ上司となって部下をつぶす
国の指導者だと、自国さえよければいいという考え方になり、国際的な軋轢(あつれき)を生んでしまう
そういうことに泉谷氏は危機感をおぼえてるそう
山口周氏は独立研究者、著作家は言う「ただ過去を振り返ると、学術でも芸術でも、天才や鬼才と言われたような人々、大きな成果を上げた人はそうした傾向を持っているケースが多いと
もちろんそのような方々の才能や業績を否定するつもりはないと泉谷氏
頭と心=身体がつながっていない人が増える中で、周辺の犠牲者も増えている
それらを総称(そうしょう)してカサンドラ病侯群と呼ぶそう
頭と心がつながっていない人が昔から一定数はいる
問題は、今の社会がそうした人たちを優秀だとして無批判に持ち上げて、権力を与えてしまう構造になっていること
成績がよければそれでいい、業績が上がれば何をしてもいいうという風潮は会社のあちこちで見られます
以前なら、成績だけが評価軸ではないと考える人間的な人たちも同等の権力を持っていたためバランスが保てた
身も蓋もなさに対応するために
経済的価値につながる学歴、業績さえよければ人格や佇まいの美しさといったものは問われなくなり、身も蓋もないことをやっても稼いだ人が勝ちだという風潮に傾きつつある
アントン.チエ-ホフの「桜の園」や、それに影響された大宰治「斜陽」(しゃよう)には、時代の大きなうねりの中で、身も蓋もなさに覆い尽すされていく社会と、その変化になすすべもなく翻弄される人々の姿が描かれている
国は違えども、そうした社会の変化のプロセスとそれに対する悲哀は共通している
生物学では環境変化に適応できない遺伝的性質を持つ生物は滅びていくという自然淘汰の考え方はあるが悲観的に考えると、社会環境が頭と心がつながっていない人々に有利に傾けば、それに心の痛みを感じてしまう人はと問う山口氏に泉谷氏は不適応者になると
恐ろしい時代
実際にそうした現実が追ってきている
その歯止めになるのが音楽をはじめとする芸術であるはずで芸術が「生きたもの」として機能していることが、人間が人間であり続けるための大切なポイントとなる
そのために必要なキ-ワ-ドは質
頭と心=身体がつながっていない人々は基本的に量を追いかける
目に見えるもの、すなわち偏差値、学歴、年収、地位といった頭で判断でき、量的に測れるものに執着する
一方質は心でしか感知できませんから、彼らにはよく理解できない
問題は、人間的感性を持ち、質がわかるはずの人が量的な競争や圧力に負けて質を軽視するようになっている
したがって、芸術は質の追求にウエイトを移し、技術的な「感心」ではなく、心が揺さぶる「感動」の方を重視しなくては
コンク-ルで順位をつけたり、点数をつけたりすることはそろそろやめになってはどうかと泉谷氏は言いたいそう
「生きている音楽」とは、質を重視した音楽ともいえる
それをどこまでとりもどせるかが重要
経済システムから人間性を解放できるか
頭と心=身体が繋がっていない人々に対抗するカギは自分の感受性を守ることと山口氏は指摘
自分の感受性ぐらい
茨木のり子さんの詩に「自分の感受性ぐらい自分で守ればかものよ」という一節がある
自分の感受性を大切にすることは、ビジネスの世界でも必要であるはず
ビジネスとアートは別個のものであるように思われている
両者が分離したのはつい最近
レオナルド.ダ.ヴィンチは貴族の結婚式の演出などでも請け負うなど、今でいう広告代理店のような仕事をしてた
絵を描くことも王侯貴族を観客とするビジネスの一環として行っていた
このように自分の感受性をもって人を喜ばせる何かを提供することは愛を対象に向けること、それがビジネスというものの本来のあり方だった
そのためアートが必要だったはず、でもいつしか分離した
もう一度戻ってくる時代がやってきてほしいと山口氏は願う
内心にひそむ確信を語る
ここから先、本当にルネサンス期のような、文化芸術の復興があるかどうかは、権力や財力を持った人たちが文化の質に目覚めて、アクセサリ-的な教養ではなく本物を知りたい
そのために生きた芸術にきちんとパトロネ-ジ(援助)しなければならないと考えるようになれば希望は持てる
芸術が感動より感心を求めるものになってしまい、商業主義に走ってエンタティンメント化している面は否定できない
芸術が生き延びていくためには、多少の商業主義は仕方ない面もある
けれど中心部の空洞化が起きている中で商業主義に走れば衰退する
社会全体で考えるべき問題であり、芸術に携わっている人たちも、単なる職業や生活の糧としてではない芸術本来のあり方を思い出すべき
あぁ~えかきのつまとして耳が痛い話題ばかり
でもいまさら妻をやめるわけにもいかないのでこのままで生きていく
小川(松の下)マリアイネス拝