母があの世へ旅立って今年で14年目になる
統計では女の方が長生きとありますが、父の方が母よりず~と何年も長~く生きた
夫婦というのは外から見ても、実際のことは分からない、子供からみてもそうである
幼かった頃母が洋裁をしているミシンの前で泣いているのを見た、多分遠い里から離れて、苦労してて、ふと悲しくなったのかも知れません
はたまた事故死させた長男を思い出してかも、、、
体は大きく、力持ちだった父に同じようについていくのは並大抵の精神力ではなかったと想像する
物心ついた私は兄の死後の母しか知らないのですが、自分と違って凄い心配性でした
家族の誰か出かけると,帰ってくるまで心は落ち着かなかったように、娘から見た母でした
辛い出来事は人間の性格をも変えると言います
父は優二(兄)の死後、人が変わったように、あまり子供たちと遊ばなかったと母は言ってた
でも私の記憶の中ではそうでもなかった、苦労しながらでも朗らかな父、もちろん母もとっても明るかった
父はよくまだ子供が三人の頃、なんて説明していいのか、一ピコ?父が寝転んで両足で子供を乗せてブランブランさせたり、足を完全に伸ばしお腹で抱え宇宙船みたいに子供を飛ばす、面白くて何回も三人は代わり替わりねだったものでした
経済的には良くありませんでした、どちらかというとどん底の貧乏、用事で街へ出るのに、バス代がなく、床下に小銭が落ちてないか探してた
でも子供の頃のお金のない時代は暗くない、両親は食事の時も冗談を言いながら楽しませた
人生の後半は二人でヨ-ロッパ、ハワイへ、国内旅行へと楽しんでた
初めての日本への里帰りはアルゼンチンへ渡って28年ぶりに、私たちは京都に住んでた
1955年に神戸の港から三人で船に乗りアルゼンチンへ移住した
久々に帰ってきて日本の変化に二人とも驚いてた
あの頃から日本の教育方針に疑問を感じ、両親がアルゼンチンへ帰る時に、長男タケル、松ノ下家では初孫、を里の小学校へ行かせる為同行させた
父は毎日車で25kmほどの距離を小学校へ送り迎えしてもらった
親が子供に伝えたいことって何だろう?
母からは良く手紙をもらった、父は忙しくて、貧乏暇なし?、いやそれが理由ではない、巳年で几帳面の父は下書きなしでは書けない、数えられる程の手紙しかもらってない、母はそうではなかった,字が間違ってたらその場でバッテンそして、気持ちをそのまま伝えてた
母は個々の誕生日には忘れずにお祝いメッセージや近い時には小包が届いた
私の誕生日は8月15日、成人を迎える20歳、長男の出産間近(9月4日生まれ)、アルバムをプレゼントしてもらいメッセジ-が添えられてた
えかきとの結婚も好きなもの同士とすんなり許してもらった、知り合って少しの間は遠距離恋愛、毎日のように届くlove letter を嬉しそうに読んでた母の笑顔を思い出す
あの頃は読めない漢字が今より多々ありましたので母によんでもらってた、そうとも知らないえかき
母が読んでると分かってたら、あのようなラブレ-タ-は書かなかったでしょう
親友に裏切られたときの痛みを和らいでくれたのも母でした「そのような人だと思えばいい」と
母は乳がんになり、そして肺と骨へ転移、色々な治療を試しましたが治りませんでした。そのころから色々な本を読み漁り、痛みに苦しむ母を間近で体験して思ったことは、がん治療はしない方がいいと
癌になって死ぬことは最後まで冷静です。両親を子供たちはパパ、ママと呼んでた
私は家族の中ではマリア。母がもう寝たっきりになり、話す。「マリア、ママはどの服を着たらいいと思う?」どこへ行くのに?と聞くと、お葬式だよと
話し続けた私、ハワイへ行った時の緑の服がいいのでは?浴衣の方がいいかなぁ~と母
自宅で酸素ボンベを置いてもらっていたけれど、絶対使うのは嫌がってた
死を早めると聞いてたのかなぁ~ でも最後はおとうとに担がれ病院へ、痛みと息苦しさを耐えながら、、、
忘れらないことは、一つ、呼吸が出来なくなっていき、苦しすぎて、窓を開けてと頼んでた、真夜中にそして朝になり眠るように行ってしまった、最後は穏やかに、多分お医者さんがそうしたと思う、暗黙の了解みたいな。
峠は今日でもう生きられないので、家族をよぶようにと
痛みに苦しんでいる母をみながら、頼みます、お願いですから楽にさせてくださいと内心願ってた。息を引き取るまで付き添っていたので、納得できた。父の死はいまだに信じられない、時が解決してくれることを願う