監察医(かんさつい)という職業があるとも自分の意識の中にはなかった
監察医とは感染症,中毒,災害などで死亡した疑いのある死体,死因の明らかでない死体などについて,死因を解明するために死体検案および解剖を行う医師。 知事によって任命される。
監察医制度は現在法律上、東京23区内、大阪市、神戸市、横浜市、名古屋市に置かれている。 ただし、十分に機能しているのは東京23区、大阪市、神戸市のみともいわれている。 監察医制度がないところが人口の8割を超えているのだ。 なお、そうしたところでは地域の医師が検案し、死亡届を書く(ネット検索)
監察医は臨床医とは全く逆の方向から、医学をみるそう
死体がある
なぜ死んだのかを調べて行く
一つの死と、それにまつわる様々な事情がはっきりしてくる
生きている人の言葉には嘘がある
しかし、もの言わぬ死体は決して嘘を言わない
丹念に検死をし、解剖(かいぼう)することによって、なぜ死に至ったかを、死体自らが語ってくれる
その死者の声を聞くのが、監察医の仕事
上野正彦さんは言う「生きている人は、痛いとかかゆいとか、すぐに文句を言う
そしてなによりも死ぬ危険があるので、私にとっては、生きている人を診るよりは死体の方がはるかに気が楽なのである
死体が怖いとか、気持ちが悪いという感覚は、医学を志したときからすでに持ち合わせていなかったような気がする
現場の状況は、逐一鑑識系のカメラにおさめられる
監察医の検死には、風情も情緒もない
なぜこのような結果になったかを冷静に観察し、死因が何であるのかを医学的に解明し、死亡時間の推定などおこなう」
監察医の仕事は地味
患者の病気を治して感謝されるようなことはない、しかし社会の秩序が保たれていることは確か
どれも興味深い内容ですが個人的にはミカンは考えさせられた
ミカン上野正彦より
”検死というものは、身内の人々の悲嘆に暮れるかたわらで行うことが多く、ときには号泣やすすり泣きが聞こえてくる
慣れはあっても、心情的に穏やかではない
とくに、子に先立たれた嘆きは、見るにしのびない
事故で亡くなった幼な子を抱きしめて
「もう一度、ママと呼んで」
と叫ぶ母の姿を見たときには,息が詰まり、胸が引き裂かれる思いである
冷静に検死をする立場でありながら、ついその情景の中に引きずり込まれてしまう
あるアパ-トの一室に案内されたときのことである
三十前後の母親が、たたんだ布団によりかかっていた
一歳を少し過ぎたと思われる幼児が、胸に抱かれて乳を飲んでいる
部屋を間違えたのかと思って、立ち合いの警察官の方を見ると、直立したまま幼児を見すえて口をわなわなと震わせている
検死の対象は、その母親であったからだ
母の死を知るよしもなく、無心に乳を吸う幼児の姿に、私たちはわれを忘れて、涙してしまった
監察医は、人の死にかかわって仕事をしているので、それなりの覚悟はできているが、このようなケースに出会うと、運命とはいえ、あまりにも過酷すぎてぶっつけようのない憤りを覚える
ある日、三件の検死を終え、四件目の事件に向かって検査車が走っているときのことであった
運転担当の職員が、車を道路わきに寄せて止まってしまった
年はくっているが、医務院に転勤してきて一年たらずの運転手である
現場から現場へ、車は急行するのが常であったが、そういえばノロノロ運転であった
車の調子でも悪いのかと思ったが、私はだまっていた
しばらくして
「先生少し待ってください、すみません」
と恐縮したような口調で、ハンカチを取り出し、目をふきながら
「涙があふれて、前がよく見えないもんで、すみません」
というのである
今、やり終えた検死のことを思っているのだろう
母子家庭で、母親が急病志したケースであった
残された男の子と女の子は、中学生と小学生くらいであった
歯を食いしばって,検死が終わるのを待っていた
葬儀のこともあろうが、今後の生活をどうするのか、子どものことが心配であったから、立ち合いの警察官に、民生委員とよく相談して善後策を講じて上げてくださいよとお願いした
警察官は、わかりました、まかせておいてくださいと言わんばかりの、力強い返事であった
私たちは、次の検死に向かわねばならないので、
「あとのことは刑事さんに頼んであるから、心配しないでいいからね」
「元気をだすんだよ」
と言って、二人の頭をなでて、その場を立ち去った
検査車には、監察医と補佐と運転手の三人が乗っている
しかし、誰もが口を開こうとはしない
重苦しい雰囲気の中、車のスピ-ドも上がらなかったのである
「私にも同じ年ころの子供がいるもんで、ついこらえきれなくって、、、」
そういいながら運転手は、気を取りなおし、車は再び走り出した
ある年の暮れのことである
東京都監察医務院長宛に、宅配便が届いた
開けると、ミカンに手紙が添えてあった
「監察医務院の名称は存じておりましたが、よもやわが身にとって終生忘れ得ぬところとなろうとは、思いもよらぬことでした」
との書き出しで、文章、筆跡から教養のある夫人と推察された
「親はなくとも子は育つといわれますが、年老いて一人息子に先立たれた親は、どうなるのでしょうか。生きるすべとてありません
この一年余の間、一日とて涙の乾いた日はありませんでした
その中で、ただ一つ救われましたことは、最後にお世話になった医師が、心優しく立派な人格のお方であったことでした
死者は二度と戻ってまいりませんが、それだけが私の心を慰めてくれています
本当にありがとうございました
私どもの住んでいる、すぐ前の畑のミカンです
立派なものではありませんが、お召し上がりください
院長様」 とあった
差出人は、「伊東市仲尾」とあるだけで、あとはわからない
記録をさかのぼって調べたが該当者は見当たらない
宅配の会社に問い合わせたところ、取扱店から、近所では見慣れない年配の夫人が依頼に来たということだった
その周辺を、警察通じて調べてもらったが、わからずじまいであった
職員を代表して書いた礼状も、当然戻ってきてしまった
十数日後の御用締めの日に、一年のしめくくりとして、この手紙を全職員に紹介した
死者の身内をいたわって仕事をしている職員の心遣いが何よりもうれしかった
みんなでいただいたミカンが、甘く酸っぱく、身にも心にも深くしみわたった
母が子を思う気持ちには、理性を超えた本能のようなものを感ずる」
もう一つのテーマは悲しいやら、現実のようで何とも言えないほど言葉を失うのはえかきのつまも老人の仲間入りをしてるからかしら?
崩壊(ほうかい)
家族でありながら、お互いの信頼関係がくずれると、どうにもならないところまで崩壊していく場合がある
支店長の一家は、妻と子供三人の五人暮らしであった
平穏な家庭であったが、中学生の長男が腎臓疾患で死亡したことから、一家の悲劇は始まった
長男の死によって母は強いショックを受け、精神状態が不安定になってしまった
不眠症から睡眠剤を常用するようになった
彼女は結婚前一時的であったが精神科に入院したことがある
その後,治癒したため結婚したという
支店長は仕事の関係で、帰宅が遅く、長男の死後も傷心の妻を慰めてやるだけの心遣いや、家庭を顧みる余裕もなく、仕事に追いまくられていた
夫に対する不満は募る一方で、彼女の精神不安は増悪していった
やがて帰宅の遅い夫に愛人でもできたのではないかと疑いを持ち始めた
ある夜疑念がこうじて会社から出ていく夫を尾行したのである
案の定、料亭で宴会となり、酔った夫が酌婦とふざけている現場を目撃してしまった
彼女の心は大きく揺れ動き、夫の弁解など聞き入れようとはせず、すぐに口論けんかとなって、夫婦の仲は冷えていった
数年後の春、妻は突然家出をした
旅先で睡眠薬を服用して、自殺を図ったが未遂に終わった
長女(高校生)と次男(中学生)の姉弟は、母をここまで追い込んだのは父であると思い込み、父の不潔な女性関係に憤り、母に強い同情を寄せていた
話し合えば誤解は解けるようにも思えたが、夫婦の会話はすぐに口論へと発展し,和解の糸口はつかめず、子供たちの父親不信は募るばかりであった
その歳の秋、妻は睡眠剤百錠入り三箱を買い、茶碗に入れ、水に溶かして服用した
長女学校から帰り、ふらふらしている母を発見した
間もなく弟も帰宅した
姉弟は母のあとを追って一緒に死のうとしたが、茶碗は空で薬はなかった
結局、母の手当てに走ったのである
緊急病院に収容され、手当てを受けたが、意識不明のまま半日後に母は死亡した
姉弟は、母を自殺させたのは父であると信じ憎しみ、機会があれば母を追うような言動があったので、父は子供たちにも学校を休ませ、父と子の心のつながりの回復に努めた
十数日後、子供たちは元気に登校して行った
一家の再出発が出来たと父も安心して勤めに出た
それから間もない日、死んだ母の誕生日がやてきた
いつもと変りなく、父と子らは午後の十一頃就寝した
この就寝は姉弟にとって、父を欺くための手段であった
前から二人は、母の誕生日に母の元へ行くべく打ち合わせていたのである
父のいびきが聞こえだしたころ、姉は弟を起こし、用意してあった睡眠剤六箱を等分にし、以前母がやったように茶碗に入れ、水に溶かして服用したのである
死に先立って、姉は死んだ母宛に
「誕生日にお母さんの元へまいります。さびしがらず待っていてください。私はお母さんのお世話をいたします」という遺書を残し、さらに父には
「死んだ私たち二人のからだにはふれないでください。母を殺したのはお父さんです」と憎みの言葉を残した
弟は、姉の言われるままに行動したものと思われる
そして姉弟はテーブルの上に、飲み残しの茶碗と遺言を置き、再びそれぞれの布団に戻った
翌早朝、子供たちの異常ないびきに父は目を覚ました
子供たちの寝息は妻の自殺のときと同じであった
救急車を呼び、病院に収容したが、弟は間に合わなかった
姉も昏睡から目覚めることなく、夕刻死亡したのである
幼い姉弟が母を追っての心中であった
一家は崩壊した
父親には本当に愛人がいたのだろうか
母親には精神病的要素はなかったのだろうか
そして、姉弟はこの両親のもつれの真相を理解するだけ大人であったろうか
些細なことが結果を大きくしてしまった
お互いが容認し理解し合えば、防げたように思えてならない
それはともかく、大人としての責任痛感する
私は監察医として三十年間も、いろいろな異状死体の現場に臨場してきた
とくに自殺に学問的興味をもっているわけではないが、このような事例に出会うと、死にゆくものの心の中が私にも読みとれるので、何とか救う手だてはないものかと思う
だが、そう感じたときは、事件ははすでに終わっているのでいかんともしがたい
もどかしい思いで仕事をしているうちに、自らの心の中を家族に打ち明けることもなく、身内から疎外され、わびしく死を選んでいく年老いた人々が目立って増えているのに気がついた
この実態を世に訴え、弱者救済の道が開けるならば、衛生行政上すばらしいことであり、その人々の代弁者となれるのは、現場に立って実態を調査している監察医しかいない
救う手だてはこれしかない、と思うようになった
そこで昭和51年から53年までの三年間を、同僚二人と一緒に調査分析し「老人の自殺」と題して学会に発表した
医学の進展とともに平均寿命が延びている反面、老人の自殺が増加しているのは世界的方向といわれている
人生経験豊かな老人たちが、自ら死を選ばなければならなくなった背景に、豊かさの中のひずみのようなものを感ずる
とくにわが国の人的構成は、戦前の教育を受けた老人と戦中に育った壮年、そして戦後これまでとは全く異なる自由主義思想の中で育った青少年の三層から成り、相互の協力によって家庭や社会をつくり上げている
しかし、老人は社会の第一線から退き家庭にあって主義主張の異なる世代から理解や敬愛されることも少なく、細々と余生を送っているように見受けられる
これら老人の自殺の検死に出向き、感ずることは家庭内の冷ややかさである
死体所見はともかく、普段の生活でも年寄りとの会話や団らんなどはなく、片隅に追いやられた状態が目につく
自殺の動機などを家族から聞いても、実にあいまいで、なにひとつ不自由なく生活していたはずなのになどと、自分たちのことは棚にあげて、自殺したお年寄りを迷惑がる始末である
しかし、生きることに耐えきれなくなって死を選んだからには、それなりの理由があるはずで、一緒に生活している身内が知らないはずがないと、切り返すと、そういえば神経痛がひどくなっていたからでしょうかなどと、病苦を動機に持ち出してくる
人生の荒波を乗り越えて七十年、八十年と生きてきた人が、なぜここで神経痛ぐらいで死ななければならないのか. 病苦は本当の理由ではない
体裁を整えているだけのことだとわかるから、もうそれ以上の質問はしない
不快感を押さえて沈黙したまま検死を終わらせる
家族にはもう早、親を荷物として疎外しているからであり、そのことを他人には言えないから、老人の自殺の動機は家族の言うように病苦とせざるをえない
したがって統計上、病苦がトップになっている
現場に立つ監察医には、その事情が手に取るようにわかるのである
病苦といっても、死に迫った病気などはほとんどなく、血圧が高いとか神経痛などあり、苦痛、苦悩は少なく、身内の温かい弁添えやいたわりがあれば、十分癒せる疾患ばかりで、老人に対する家庭内の対応が冷たかったためと思われるものが多いのだ
本当の動機は病苦ではなく、家庭の中に潜む冷たさである
そこに老人問題の難しさがあることを、改めて知らされた
東京での老人の生活状況は、三世代世帯の老人老人が最も多く、次いで子供と二人暮らし、夫婦二人暮らし、独り暮らしの順であった
家族と同居の老人こそ、最も幸せのように思えたが、必ずしもそうではなかった
独り暮らしであるから寂しく孤独であるというものでもない
独り暮らしは自分の城を持ち、訪れる身内や近所の人たちと交際し、それなりに豊かさを持っている
むしろ同居の中で、信頼する身内から理解されず、冷たく疎外されていることのわびしさが、老人にとって耐えられない孤独であり、それが自殺の動機になっていることを見逃すことはできない
最も幸せに思えた三世代世帯の老人の自殺が一番多いのに驚いた
嫁と姑の問題などをはじめ、老人の自殺の動機は家庭問題にあり、七~八割がこれであるといって過言ではない
いずれにせよ老年期は、心身の機能が低下し、社会的役割の低下の伴い収入が減少し、そして家庭内では家族から重荷として扱われ疎外されていく
他人ごとではなく、やがて我々自身にふりかかってくる問題である
この論文は、すぐ新聞やテレビに取り上げられ、福祉関係者の注目を集めた
とくに総理府、厚生省、国家議員などからもデータを含めて意見を求められた
当時は独り暮らしの老人に福祉の主眼が置かれていたが、その後家族と同居の老人も見直されるようになった
この論文が国の福祉政策に少なからず影響を及ぼし、改善されたという話を、後日福祉関係者から聞いて、老人の代弁者になれたことをうれしく思った
一家崩壊事件にせよ、老人の自殺などを目のあたりにして、この社会病理学的現像は、早期に解決の道を見いだし、明るい家庭、住みよい社会をつくり出すため、すべての人が考え努力しなければならないことだと痛感した
単に福祉の問題だけではない
社会的最小単位である家族のあり方から出直さなければ、この問題は解決しないような気がする」
”仕事に命をかけるという表現は、今も使われている格好のよい言葉である
だが命を犠牲にしてまでやるのではなく、あくまでも一生懸命やるという気概を示す意味であろう
命に代えてまで、やらなければならないことはなにもない
長いこと監察医をしてきて、死を扱い生の尊さを知り、つくづくそう思うのである〝上野正彦より
えかきのつまは生きることばかり考えていたことに気づく
小川(松ノ下)マリアイネス拝