松ノ下マリアイネスは絵描きの小川憲一とアルゼンチンで知り合い結婚1

パ-ト1

 

今更言うことでもありませんが、松下幸之助はとっても有名なお方

私は松下ではなく、日本でも珍しい名字、松ノ下実を父親にそして尾竹麗子を母親に長女として、日本から一番遠い国、地球の裏側、表側?のアルゼンチンという国で、1956年8月15日この世に誕生

アルゼンチンのミシオネス州のオベラという所で生まれました

今では里のイグアスの滝は世界遺産となっている

 

イグアスの滝 ; ブラジルの旗 ブラジル・パラナ州 (20%) アルゼンチンの旗 アルゼンチン・ミシオネス州 (80%). 滝幅: 2,700 メートル 世界落差ランク: 第5位、グループF 滝数: 275 最大落差: 悪魔の喉笛: 82メートル

 

両親は二人とも鹿児島県出身である

1955年に移民として神戸の港から外国船の [オランダ船 ボイスヴェイン号(BOISSEVAIN)]号に乗りアルゼンチンへ

 

[オランダ船 ボイスヴェイン号(BOISSEVAIN)]
クル-ジング?を楽しむには程遠く、母は船に乗っていたほぼ3か月間は船酔いで気分が悪く、寝たきりだったそう

父はもっと大きな農業を夢見て、それとは裏腹にあまり乗り気ではなかった母は親戚に相談したところ「夫について行くのが妻の務め」と説得され、決心したそうです

1952年鹿児島生まれの長男の優二、三人の長い船の旅は始まった

 

優二桐原の父方の里にて

 

優二と父方の祖父  桐原にて

 

 

 

 

 

 

アルゼンチン出発前、神戸にて両親とお兄ちゃん

 

両親の出航前に神戸まで見送りに来て下さったお祖父ちゃんと叔父ちゃん

 

自分が親に、そしてバ-バ-になり、理解できる立場や特に子供や孫を自分から離れもう二度と会えないと思う気持ちは今になって感じる

Mas tarde que nunca というフレ-ズがありますが、まさにその通り,決して遅くないと思わなければ生きていけない

 

アルゼンチン、ブエノスアイレス港へ着いた時はペロンの独裁政権、クーデ-タの真っただ中

銃の弾が飛び交うことに驚きを隠せなかったと思う

初めて味わうアルゼンチンは、両親や兄にはどう映ったのでしょう、生存しているうちに聞いとけばよかったと後悔

ブエノスアイレスから目的地まではまだ1300kmあり、北へ北へと向かう汽車に揺れながらどこへ連れていかれるのだろうと不安でいっぱいだったと想像します

 

移民一年後私が生まれて、3か月後には兄が事故死

この時には何故日本から身内や知り合いが一人もいないこんな遠い、見知らぬ土地へ来たのか後悔したかも

 

両親とマリアイネス オベラにて

 

ミシオネス州に来たばかりの時だと想像する、優二もいる

 

 

長男の死は一生、両親の脳裏、心の傷となり、取り返しのつかない出来事で、忘れることはできなかったと察します

知らせを鹿児島の祖父が受けた時の様子を母の妹(父の弟と結婚)松ノ下家を継いでいた,上記の写真の祖父は畳を叩き悲しんでいたそうです

遠い国で生まれ育ったので、祖父には写真でしかお会いしてません

事故死させたことの責任を背負って過ごした人生であったのではないでしょうか?

 

子沢山に恵まれて、私に続いて4人がこの世に誕生してきたので6人きょうだいです

 

里帰り出産の時の写真、タケル長男とヒトシ次男も写っている

 

幼い頃の思い出

あまりないと言うか、覚えてないと言うのが正しいでしょうか?

うっすら覚えているのが栴檀の実の投げ合い、男の子は木に登るので上から実を取りながらどんどん投げるが、女子は投げられた実を拾って上に向けて投げても全然当たらないのである

記憶を辿ればいろいろ思い出される、アリの行列を見つけては観察したり、糸に名前の知らない虫を縛り他の巣に入れると、仲間が釣れる?くっついて出てくるのである

アリと言えば両親が、特に父が涙を流しながら、笑いながら、苦労時代のことを何回も話を聞かされたので思い出す

両親は畑仕事へ、まだ弟と私だけの時期

多分雨前で移動アリが庭中に、真っ黒に染めてた

幼かった二人は親がアリ退治に何か白い粉を撒いていたのを見てたので、ひらめきました.

お手伝いのつもりで、親が大事に倉庫に保管していたメリケン粉を使ってアリ退治を,小麦粉を薬品と思って庭中にまいたのでした

野良仕事から帰ってきた両親はびっくりしたと思います

記憶には全然なく、叱られたのかしら?注意されたのかしら?両親はとても穏やかな二人だったので、特に私は叱られたことはないので、えかきに付き合ってる頃私のやきもちに嫌気がさしたのか、ほっぺを叩いたことがある

「親からも叩かれたことは無いのに」と拗ねた

 

子供は良いことをしたと褒めてもらえると、でもお金もなくやっと買って大事に保管してた粉を台無しにされた両親

過ぎ去ってみれば父には可笑しな出来事としか思えなく,話す度の笑っているのか泣いているのかわからない様な表情が懐かしく思い出されます

 

アルゼンチンで両親は4度の引っ越しを、2度目のハルディンアメリカでは土地を買い、開拓を機械なし、車もなしで人里離れた、一番近いお隣でも2km~3kmはあったと思う

 

運動会にて  ムカデ競争  楽しかった!

子供の遊びは自然相手でした

現代っ子とは天と地の差ですが、楽しかったエピソ-ドは多々あります

 

諸国漫遊
しょこく-まんゆう
様々な国を気が赴くままに旅すること。えかきのつまの今の小さな希望かも

 

 

小川マリアイネス拝  つづく

 

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