松ノ下マリアイネスは絵描きの小川憲一とアルゼンチンで知り合い結婚2

B!

二度目の引っ越しで、幼い頃に住んでいたハルディンアメリカは小さな町まで20km程の距離

 

アルゼンチン、ミシオネス州

 

このエピソ-ドは記憶にはないのだけれど、テーブルの角でおでこ、眉の直ぐ上を打ち出血が止まらなかった

 

父は私を抱っこして医者へ歩いて連れて行ってくれたそうです

今でも残っている傷の跡を見ると、心が締め付けられる

親は子を思う、そして子は親を思う

自分が親になり初めて分かる親の気持ちもある

 

アルゼンチンでは夏休みは3ヶ月ほどある、経済的には余裕はなかったのでバケ-ションには縁はなく、家の手伝いに明け暮れた

子供なりに自然相手に楽しんだ

青春とは人生のある時期ではなく、心の持ち方を言うけれど、ハイスク-ルの頃には父は製材所もしており、夏休みには父、すぐ下の弟と山へ泊りがけで、車はないので15km程歩いて通ってた

 

手伝ってたのか、遊びに行ってたのか不確かである

自分の干支は申です、干支と関係はないかもしれませんが、木にぶら下がっているツタでタ-ザンごっこ遊びもした

父がトラクタ-で丸太を引っ張って行く上を、ツタにぶら下がったタ-ザンはひゅ~んと行ったり来たり

 

育ち盛りの時にみませんか?天井の角から角へ飛ぶ夢を?そのような感じでした、普通のブランコよりず~とおもろい、ジャングルの中のタ-ザンなのですから

いつの時代の話ですか?と聞かれそうですが、このようなことをして親を助けながら?遊んでました

現在の子供達には理解不能な遊び、楽しみ方

大自然の中で,まだ切り開いてない山、ほぼジャングルのような所で過ごした私たちの夏休み

 

子供の背丈より伸びた雑草を弟刈っていると、ゆうゆうと揺れる草むらの中に何か動物でもいるのではないかと、通りがかりのトラックの運転手さん、エンジンを止めてそ~と見に来られのですがとっても驚いてた、動物に直面したのではなく小さな子供たちが草刈りをしてたことに

 

 

 

金銭的に余裕のある人たちは、海岸や山荘へと行かれるバケ-ション、何故だか羨ましいとは思わなった

どうしでしょう?個々の立場、みんなが一緒という教育ではないから?

 

高校を卒業してすぐ大学へと望んだ私でしたが、親のアドバイスは、もちろん金銭的余裕はなかった理由もあったのでしょうけれど 「一年考えて、それでも大学へ行きたいなら」との意向に添うように努力した

 

弁護士で法律の先生のアドバイスで町役場に就職したのだけれど、政治がらみの職場は嫌で、数ヶ月で銀行からのお誘いでそちらへ速転職

 

銀行に一年勤めました

あの頃のアルゼンチンでの新入社員の有給休暇は14日間

休みを利用してブエノスアイレスへ

やはり大学は諦めきれず、入学手続きを、保母さんになるための

友達のマンションに宿泊していて、クリスマスのパ-ティに誘われた

ある有名なホテルの地下で、日系や主に一世の若者たち,特に日本商社に勤めてらした人たちが主催したパ-ティでした

世界でもそうですが、アルゼンチンでは年末年始よりクリスマスを最大に祝うので里へ帰る人たちがど~と増え、バスのチケットは売り切れに

帰れない、家族と過ごすはずのクリスマスには里から遠いブエノスで?とパ-ティもつまらなく感じてた

里よりもブエノスの空気は悪いし、地下から外の空気をと階段を上がって行くと踊り場で目と目が合っただけで、それからの人生が決まってしまったのである

 

まだ無口だった頃

外で空気を吸って、パ-ティ会場の自分が座ってたテ-ブルに戻ると先ほどあった背広を召された方が座ってた

「踊りませんか?」と誘われて、自分が進もうと思っていた道が狂ってしまった

クリスマスパ-ティがきっかけで出会った人はえかきであった、初めて会う芸術家らしきお方

「明日ここに電話下さい」と渡されたのがそこそこ分厚い住所録、日本の知り合いや、親戚、元彼女❓のも記録してたかも、、、漢字がまだあまり読めなかった私、彼には好都合でした

アルゼンチン人だから?個人的な考えだから❓初めてお会いしたばかりの人には自分からは電話はしない、、

でも困りました、今とは違い、住所録がないと彼は本当に困るだろうと考え、次の日ではなく、二日後に連絡を取った

二日酔いで電話の口で聞こえる怒る声

「なんで昨日は電話してこなかったんだ!」「すぐここへ来い!」と

両親から怒られたことはない、まして怒鳴られるはあり得ない

金銭的にはとっても苦労はした両親ですがとっても穏やかだった、えかきとはえらい違い

こんなことを言うときょうだいたちに怒られそう、恥ずかしいとか、でも鮮明に覚えている、父か母がどうしても町へ行かないとならない用事があったと理解するが、バス代がなく縁の下で小銭を探してたことを幼い頃の一つのちょっと悲しい逸話、両親の苦労を思い出している

 

えかきのエピソ-ドに戻りますが、無口で素直だった自分ははいと言って会いに行ったのが間違いだったのかしら?デートをしました

 

喫茶店へ行くと紙ナプキンにさっさっと描いてくれてた

夜遅くになっても帰らない私を心配した友人は警察に連絡を心がけたそう

多分その前に電話をしたのだと思う

 

 

アルゼンチンの結婚パ-ティではワルツをまず新郎と新婦が踊り、次に両親とそして友人と

あんなこんなで出合ってしまった二人は付き合って一年後に結婚、そして47年目の記念日をめでたくむかえました

50年近いえかきとの付き合いには三人の子に恵まれ、今ではそれぞれが色濃い人生を歩んでいることに親として感謝のみです

後何年生きられるか誰にもわからないけれど、できたら後悔のない余生を楽しみたい

 

小川マリアイネス拝 つづく

 

 

 

 

 

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