1980年代は10年京都に住む
アルゼンチン生まれ育ちのえかきのつまは1980年に初めて日本の地を踏んだ、そして京都に住む
えかきの幼稚園からの親友がいつも自慢する、みやびの国で10年間生活を楽しんだ
この友人はちょ~頑固者、1947年生まれのいのしし年、えかきと一緒、都はるみも同級生だった
私の京都人のイメ-ジとは違い、捕鯨船に乗ったことからかクジラと呼ばれてる
身体は大きく、でも手は小さいのでもみじの手とえかきはいう
ある広島県人の友人は「京都のどこがええんじゃ、くそ暑いし、食事はまずいし、いいものは何もないと」
もう一人の友人は学生時代を京都で過ごし、ある日都ホテルへカレ-を食べに
ソ-スをカレ-にかけたら、サービスの方が速カレ-を持ち帰り、また新しいのを
「どう食べようが勝手じゃ、ワシはソースをかけて食べるのが好きなんじゃ」と怒ってた
そしてこんなことも話されてた「わざわざ北海道までカニを食べにいったんじゃけど瀬戸内の渡り蟹の方がよっぽど美味い」
京都が好きな方は多い
私も思い出は多々あり、語り切れない、お祭りにもいろいろ行きました
えかきの妹さんに人生二度目?の変装(お化粧)
アルゼンチンで住むつもりで4年間あちらで生活を、でもままにならないのが人生
アルゼンチンからまた日本へ、先に長男と絵描きが家探しからのスタ-ト
京都から、淡路、和歌山、広島と友人を頼って探した
縁あって福山市に合併前は沼隈郡、沼隈町の能登原地区に小さな家を借りた
新地で新生活、娘小2,次男小5と長男は中3
直ぐ皆様と親しくなり、地域に溶け込む、近所のチー君が「イネちゃんは何年ここに住んどるんじゃ~」と ト-タルで4年間ほどしか能登原にはいなかった
聞かれたときはいつじゃったか、、、イネちゃんはず~とここに住んでいるような、ワシらよりよう知っとるの~と
それはしょうがないのである。昼間は皆さまはお仕事へ行かれるけれど、自分は専業主婦、おじいちゃんやおばあちゃんと直ぐ仲良しになる、それが私の特権かしら?
方言は大好き、でもそちらの面では流されなかった、どこでも
私が話すのは京都弁でもなく、広島弁でもなく、鹿児島弁でもないと思う
変な日本語かもしれない、でも問題なく生きてこれた
分からないことはすぐ聞くので困らない。笑える逸話は数えきれないほどあるけれど
たかが四年間でも凄く濃い年月でした
運動会、行事、カラオケ大会、何もかも面白かった
ほかの地域と違ったのは1月の2週目の日曜日に行うとんど祭り
『藁をすぐるように」と子供たちは言われてもわからない、方言?
年末から準備に大忙し、子供会も、地域の人たちもとんどの飾りつけや色々作った
能登原(のとはら)とんど祭り
1996年より市指定無形民俗文化財
午前中に地区を練り歩き、午後には能登原小学校のグランドに6基のとんどが集まり、出来栄えを比べた後、ぶつけ合いが始まる
お互いのとんどぶつけ合うことから暴れとんどとも呼ばれているそうです
6基が寒風に揺れながら勢いを競う
その後とんどは各地に持ち帰られ、無病息災、家内安全願いながら焼き払われる
そしてその時に注連縄や古いお札、書初めも焼かれる
この火で真っ黒に焼いた餅やだいだいを食べると、胃腸が強くなり、風邪もひかないそう
毎年1月の第2日曜日に行われる伝統的なとんどは10メ-トル近い藁飾りのとんどをきらびやかに飾り付けて、地域を練り歩く正月の風物詩
とんどは本谷、下組,立河内、鞆路、白浜,桜の六地区で竹、黒松,藤藁、紙、杉の枝などを使ってやぐらを組み、その上部には弓と矢を、模した飾りを付け、注連縄と干支の額が飾られる
やぐらの中には一人、男子が太鼓をたたく、戦いの時も、倒れたりしてちょっと怖いかも、次男も叩いたことある
見学しているだけでもたのしいのである
あぁ~懐かしきあの頃が
楽しい能登原での生活、地域の皆様に良き思い出を感謝いたします。
生まれたての子犬をお墓で子供たちが発見して次男の一生のおねがいやと言われ飼い始めたベルは能登原出身です、ハスキ-の母に、紀州犬の父、野良たちの子でした。